「うつ病」放浪記---国民病に罹った「私」は、いい医者、薬を求めて彷徨うことになった【第一章】
工藤美代子(ノンフィクション作家)

【うつ病】うつびょう よく知られている症状は強い抑うつ(憂鬱な状態)、不眠、食欲不振だが、躁状態をともなう「双極性障害」、好ましいことがあると抑うつが和らぐ「非定型うつ病」など、様々なタイプがあるといわれる。一日に七万人がこの病気で受診するという国の調査結果(二〇〇八年当時)もある

 第一章 死に至る病

 ぼんやりと頭の片隅に潜んでいた記憶が蘇った。

 「ねえねえ、工藤家には自殺した人なんていないよね?」

 祖母のヤスに尋ねたのは、私が小学校の五年生くらいのときのことだった。

 母方の祖父母は東京の両国で写真館を営んでいた。母はそこの一人娘で、他に四人の男の兄弟がいた。

 幼い頃に母の実家を訪ねると、いかにも下町らしい活気に満ちた空気が漲っていた。戦後の復興と共に江戸っ子も息を吹き返したようで、誰もが早口で喋り、みんな家の中でも小走りだった。叔父たちは冗談をいい合っては大声で笑う。写真館の前の路地には三味線の音色が流れてきたりしていた。

 ある日、黒いワンピースを着た母に連れられて両国へ行った。すると祖母が悄然とした顔で居間にぽつねんと座っている。

 とても仲良くしていた近所の奥さんが前日の朝、「助けて、助けて下さい」といって写真館に飛び込んできた。まだ十九歳の息子さんが自分の部屋で自殺をしていたのである。

 薬学を専攻していたので、きちんと致死量の睡眠薬を服用して亡くなった。前の晩までは普通の様子だったので、まさか自殺するなどとは誰も想像だにしていなかった。

 私も死んだお兄さんとは顔見知りだったので子供ごころに不思議だった。若くて健康で優しいお兄さんが、どうして自分で死んじゃったのだろう。

 祖母にも母にも、その理由はわからなかった。実の母親でさえ、息子が命を絶った原因は思いあたらないと泣いていたそうだ。

 しかし、人間はある日突然、自殺をすることもあるのだと知って、私は初めて大人の世界を垣間見た気がした。複雑でよくわからない混沌とした世界だ。

 だから、祖母に尋ねたのである。まさか工藤家には自殺した人なんていないよねと。

 「それがね、いないってわけじゃないんだよ」と、祖母は歯切れの悪い答え方をした。

 「おばあちゃんのね、叔父さんが若い頃に自殺をしたんだよ。これは誰にも話したことはないんだけど。そう、おじいちゃんは知ってると思うけど、もう大昔のことだよ。おばあちゃんも子供だったから、よく憶えてないんだけど、なんかね、もしかして目が見えなくなるかもしれないって医者にいわれて、神経衰弱みたいになって、首を吊ったか手首を切ったかしたんだよ。とにかく自殺をしたんだよ」

 祖母は困ったように下を向いた。余計なことだから、誰にもいうんじゃないよと小声でつけ加えた。

 「へえー」といって私は黙り込んだ。

 底抜けに明るい工藤の一族にも自殺をした人はいたんだ。それは思いがけない重みを持って私のこころに残った。しかし、祖母のいいつけを守って、それ以後は一度も親戚の前で自殺を話題にはしなかった。

 この原稿を書こうと思い立ったとき、あのときの祖母の言葉が、はっきりと記憶に蘇った。それまでは完全に忘れ去っていたのだが、自殺という言葉が身近になったときに、急に鮮明に思い出された。

呼吸困難になった日

 あれは平成二十三年の十二月十五日だった。東京・白金の北里研究所病院の十階にある総合内科の病室で、私は大声で叫んでいた。

 「違います。絶対に違います。だって自殺しようと思ったことなんて一度もありません。家族にも親族にも自殺した人は一人もいません。だから絶対に違います」

 この三日前に私は救急車で病院に搬送された。突然、呼吸が出来なくなり、眩暈がして手足が痺れて動けなくなった。何かあったらいつでもいらっしゃいといわれていた三鷹のL大学病院の副理事長のM先生に電話をして、症状を話したら「今日はうちの緊急外来は混んでますから、いらして頂いても二時間くらいお待ち頂きますね。えっ? 入院して検査ですか? それは医師の判断によりますからお約束できませんねえ」ゆっくりと穏やかにM先生は答える。

 ああ、そうだ、たしかこの病院には十一月十日に、やはり緊急外来に駆け込んだのだが、さんざん待たされて、ようやく診察してくれた若い医師からは思い切り迷惑そうな顔をされ、結局原因がわからぬまま帰されたのだった。

 それなのに、また助けてもらおうと思う方が間違いだった。荒い息をぜーぜーさせながら、「わかりました。有難うございました」といって電話を切ろうとしたら、自身も医者で緊急外来の責任者でもあるM副理事長は「たとえ救急車でいらしたとしても、今日はお待ち頂きますよ」と付け加えた。返事もそこそこに私は電話を切った。

 そうだ、救急車を呼ぶしかない。しかし間違ってもL大学病院へは行くまい。夫に一一九番に電話をしてもらっている間、私は必死になって考えていた。

 どうしよう。どこに行こう。このままだったら死んでしまうかもしれない。

 ああ、やっぱり北里研究所病院だ。あそこならきっと入院させてくれる。邪険に患者を追い返したりはしないだろう。でも、断られるかもしれない。そうなったら大作昌義先生に電話しよう。先生は外科医だけど、きっと患者を見捨てたりはしないだろう。

 そうこうしている間に救急車は到着した。かかりつけの病院はありますか? と聞かれて「北里に連れて行って下さい」と途切れ途切れにやっと答えた。

 「遠いですね。でも、聞いてみましょう」と救急隊員がすぐに連絡を取ってくれた。

 私の家は世田谷区の赤堤なので、確かに港区白金にある北里は遠い。しかし、すぐに、北里は受け入れ可能という返事をくれた。その瞬間だった。涙がとめどなく流れだした。自分でもなぜ泣いているのかわからない。それなのにどんどん涙があふれ出てくる。

 「ああ、助かった。これで死ななくてすむ。きっと死なないですむんだ」

 悲しくて泣いているのではなくて嬉しくて泣いているのだと、そのときは思った。でも、今考えると、どちらだったかはわからない。

 世田谷区から港区まで救急車でさえも三十分以上もかかったが、午前十一時頃には病院に着いた。呼吸は苦しくて、手や足の痺れは続いていた。

 すぐに左足の付け根に大きな注射をされた。動脈から血を採るためだった。猛烈に痛い注射なのだが、苦痛を感じない。これで何かがわかるなら嬉しい。治療をしてもらえるのなら有難い。神様、どうかこの病院が私を入院させてくれますようにと、ただただ祈っていた。それでも帰されるかもしれないという不安があった。

 酸素マスクをされて、点滴が始まった。

 付き添って来てくれた夫は、忙しく携帯で電話をかけまくっている。この翌日には大事な対談の予定が入っていて、さらに次の週には講演の約束が二本もあった。もうポスターも作られて、入場券も完売していた。

 「大丈夫だよ。全部キャンセルしたから」といって、夫が私の手を握ってくれた。それから、夫と担当の先生が私のベッドから少し離れたところで何か話していた。「入院」という言葉を夫が繰り返すのが聞こえてくる。

 その間も涙は止まらない。ただ静かに目のふちからこぼれてくる。ここに辿り着くまでの日々を思った。朝までに死ぬかもしれないと怯えながら蒲団をかぶって過ごした無数の夜のいかに長かったことか。

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