読書人の雑誌『本』
『水戸黄門「漫遊」考』 著者:金 文京
~水戸黄門の印籠~

 今年の五月、イギリスの競売会社ボナムスが出品した明治時代製作の印籠が、三〇万一二五〇ポンド(約三九〇〇万円)で落札されたというニュースが伝えられた。印籠といえば、ご存じ水戸黄門であるが、そんなに高価なものとは不明にして知らなかった。これではたとえ紋所が目に入らなくとも、おそれいらざるを得ない。

 印籠は、その名のとおり、もとは印章つまりハンコを入れるものであったはずだが、実際には薬を入れる薬籠もしくは単なる装飾品として使われたらしい。その起源もよくわからないが、桃山時代にはすでにあったとされ、江戸時代には武士や町人のたしなみとして広く用いられ、技巧をこらした作品が多く作られた。

 しかし明治以降、文明開化とともにその価値が忘れられ、名品の大半が海外に流出した。一九二九年から四四年まで、スイス領事兼ネスレ社の代表として日本に滞在したモーリス・シャンプー(Maurice Champoud)のコレクションなどが有名である。日本にも高山の印籠美術館、京都の清水三年坂美術館などの所蔵があるが、一般にはやはり印籠といえば水戸黄門、その芸術性の鑑賞については、どうやら欧米人におよばないようだ。

 さて水戸黄門のドラマは、天下の副将軍、徳川光圀が、越後の縮緬問屋の隠居に変装して、助さん格さんをお供に全国を漫遊し、いたるところで役人の悪事をあばき、か弱き民衆を助けるという話で、最後は印籠を出して、この紋所が目に入らぬかと、真の身分を明かす趣向である。

 このパターンを繰り返せば、話はいくらでも再生産できるのであるから、テレビドラマにはもってこいであろう。毎回同じパターンの超マンネリで、あきそうなものだが、これがなかなかあきない。あきないどころか、印籠の場面を見るたびに胸がすっとするという人がけっこういるところに、この話の不思議さがあるだろう。

 かくして日本では知らぬ人とてない水戸黄門であるが、これとほとんど同じ話が中国や韓国にも実はあることは、あまり知られていない。たとえば中国、明代の短編小説集『警世通言』に収められた「李太白酔写嚇蛮書」(李太白酔って嚇蛮書を写く)は、唐代の大詩人、李白が、玄宗皇帝のお召しによって、朝廷に仕えたはよいものの、酒に酔ってのわがままがたたり、ついに楊貴妃に嫌われてお払い箱になるという話である。