第3回 松下幸之助(その三)
敗戦の喪失感---平和と幸福の実現を
目指した松下は、「研究所」をつくった

第2回はこちらをご覧ください。

 松下幸之助を語る上で、その実業家としての手腕とは別に、社会運動家としての側面を無視する訳にはいかない。

 戦時中、松下幸之助は、「特攻の父」大西瀧治郎にその創意と生産技術を認められ、畑違いの海軍艦艇から、ついには飛行機までも生産する羽目になった。

 もちろん、祖国の命運をかけた戦争にたいして、参加し貢献するのは、近代国家の国民としては、当然の事だろう。

 とはいえまた、結局、敗北してしまったという事実は強い喪失感をもたらしたし、国土と人心の荒廃は大きな衝撃と悲しみをもたらした。

 たしかに、本来の事業である家庭電器製品の製造に復帰できたという事は、大きな悦びだったに違いない。けれども、松下は、戦争という暗い雲が通り過ぎた後にも、電器メー
カー経営者という立場からのみ、社会と関わっていた訳ではなかったのである。

 昭和二十一年十一月三日、日本国憲法が公布された。

 アメリカ占領軍の進駐がほぼ完了した十月四日、近衛文麿国務大臣と面会したダグラス・マッカーサーは、憲法は改正しなければならない事、改正に際しては民主主義的要素を十分に取り入れる事、選挙権を拡大し、婦人と労働者にも選挙権を付与する事を要求した。

 けれども、結局、日本側は新しい憲法を自ら作りあげる事は出来なかった。

 GHQは、二十人程度の米軍将校と軍属を集めて新憲法を起草し、日本政府はその草案に基づいた憲法を発表した。

 憲法は枢密院の諮詢を経て、衆議院で二月、貴族院で一月、審議され、可決に至った。
憲法公布と同日、門真の松下電器本社修養室において、PHP研究所の開所式が行われた。

 参列者は、社の幹部七十人、所員は松下を筆頭に七人にすぎない。