第2回 松下幸之助(その二)
「三百年残る建物を」軍需による絶頂期、
幸之助が自宅に巨費を注いだ理由

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 大正七年三月、大阪市北区西野田の大開町、わずか二間の松下電気器具製作所を設立して以来の、幸之助の歩みは多くの人が知るところだろう。

 大正十二年に自転車ランプを売り出し、昭和に入ると「ナショナル」ブランドをたちあげ、アイロンなどの電熱部門を発足させ、四年の世界恐慌も住友銀行の融資をうけて無事乗り切り、六年には家庭用ラジオ販売をはじめ、八年には事業部制を導入するとともに、本社を門真に移転させている。

 十年には株式会社化して松下電器産業株式会社に改組、と成長してきた。

 戦前日本の大きなターニング・ポイントが、昭和十二年である、という事については、大方の認識は一致しているだろう。

 同年六月四日に第一次近衛内閣が発足したが、その一ヵ月後、盧溝橋事件をきっかけに、日華事変が勃発、八月には上海に戦火が飛火している。

 政府も大本営も、小規模の軍事衝突にすぎず、短期間で終結すると予測していたが、戦火は拡大の一途をたどり、その拡大過程の中で、日本の政治、経済、文化もまた、変質していった。

 松下電器もまた、国家体制が変わってゆくなか、従来の民間の需要に限らず、軍需にも対応せざるをえなくなる。

 もっとも、軍需を引き受ける事は、けして悪い事ばかりではなかった。

 たしかに、陸海軍の指導、統制を受けることは、好ましくはなかったが、支払いは確実であり、利益は十分得られた。