アダム・スミスの「生きるヒント」 第11回
「所得格差は本当に問題か?」

第10回はこちらをご覧ください。

 スミスは、分業と資本蓄積が国民の富を増やしていくために必要だと説きました。しかしこれは「もっと上を! さらなる成長を!」という無意味な経済発展を意味していたわけではありません。

 スミスが生きていた時代は圧倒的な「モノ不足」の時代です。つまり「もっと多く! もっと上を!」ではなく、「少しでも不足分を補うために!」の経済発展だったのです。

 ここを理解していないと、スミスの意図を勘違いしてしまうことになります。スミスが意図した経済発展は、単なる金儲けではなく、「貧困をなくすため」でした。

 スミスは、分業と資本蓄積の結果、富が増産され、それが社会の最下層まで広がると考えました。この「社会の最下層」つまり貧困層を救うための分業であり、資本蓄積なのです。

格差は「悪」なのか?

 ここで考えてみたいことがあります。それは「格差」についてです。

 分業が貧困を救うとはいえ、分業によって商品を大量に生産できるようになればそれだけ資本家が儲かります。ここで持てる者と持たざる者の格差が拡大するのではないか、という懸念がわいてきます。

 その「格差」について、スミスはどう考えていたのでしょうか? もしくは、当時はそこまで認識が届かなかったのでしょうか?

 結論を言いますと、スミスは分業によって格差が拡大することを認識していました。そしてそのうえで「貧困を救うためには格差が生じても仕方がない」と考えていました。

 現代では、格差は「非常に大きな問題」と捉えられています。たしかに社会に不公平感が蔓延し、暴動やデモが起きるなど社会が不安定になるかもしれません。しかし、だからといって富が増えなくていいのでしょうか?

 格差が生じたとしても、国全体の貧困が救われる社会と、みんなで貧乏な状態にいる社会と、どちらがいいでしょうか?

 スミスも格差が発生することは認め、その上で、こう言っています。

《原 文》
「文明国の最下層の人でさえ、何千人もの人びとの助力と協力なしには、(中略)彼がふつうにもっている家財道具さえ提供されえないことがわかるだろう。たしかに、地位の高い人びとの法外な奢侈にくらべれば、彼の家財道具は疑いもなく極度に単純容易にみえるにちがいないが、それでも、ヨーロッパの王侯の家財道具が勤勉で倹約な農夫のそれを超えている度合は、かならずしも後者の家財道具が何万もの裸の未開人の生命と自由との絶対的支配者であるアフリカの多くの王のそれを超えているほどではないということは、おそらく、真実だろう」(『国富論〈1〉』 P35)

《意 訳》
文明国においては、最も貧しい人々でさえも生活品を手に入れることができる。たしかに王や貴族など地位の高い人々はずっと贅沢な暮らしをしており、それに比べると貧しくは見えるだろう。しかし、その国王と庶民の「格差」は、文明国よりも未開の国での方がより大きいだろう。

 経済が発展している国でも「格差」は存在しています。ですが同時に、経済が未開の国ではもっとひどい格差があると述べています。もしそれが事実だとしたら、経済が発展すると格差が拡がるという批判は妥当ではありません。

 たしかに現代では、資本主義を「神の見えざる手」に基づいて各自が自分の利益を追求した結果、かつてないほどに格差が広がっています。

 米議会予算局の報告で、過去30年の所得推移をみると、

◎ 富裕層上位1%は275%の所得上昇
○ 富裕層上位20%は65%の所得上昇
△ 貧困層下位20%は18%増に留まる

 という結果だったようです。

 ここから過去30年「金持ちはより金持ちになったこと」「所得格差が拡大したこと」がわかります。そのため、「スミスの時代と現代は違う」という反論も多く出るでしょう。

 ですがここでは、さらに一歩立ち止まって「本当に格差が問題なのか?」と改めて問いたいと思います。

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