[パラリンピック]
高桑早生(短距離ランナー)「スプリンター高桑早生の誕生秘話」

「あの人の走り、すごくきれいだな」。2006年9月、中学2年の高桑早生は目の前の光景に目を奪われていた。東京都北区の障害者総合スポーツセンター。その地下にある陸上競技場では、同センター主催の「はばたき陸上大会」が行なわれていた。競技場に入って、最初に目に飛び込んできたのが現在、切断者スポーツクラブ「ヘルスエンジェルス」の選手会会長を務める水谷憲勝だった。当時、まだ現役だった水谷のフォームは片足が義足とは思えないほど美しかった。さらに周りを見ると、色とりどりの義足を身に付けた選手たちが楽しそうに走ったり、跳んだり、投げたりしていた。しかも高桑が身に付けていた義足とは異なり、「J」のかたちをしている。「かっこいいな……」。初めて目にしたスポーツ義足に、高桑は魅了された。それが陸上との最初の出合いだった。

「ひと時もじっとしていない子でしたよ。幼稚園の園庭でみんなで遊んでいても、一人ピョンピョン跳ね回っているのが早生。もう、どこにいるかすぐにわかるんです(笑)。とにかく常に動き回っていましたね」。高桑の幼少時代をそう語ってくれたのは母・洋子だ。高桑には3つ上の姉がいる。「同じ環境で育って、こうも違うものですかね(笑)」。そう母・洋子が語るように、2人は性格も違えば、趣味もまるで違った。

 例えば習い事ひとつとってもそうだった。クラシックバレーを習っていた姉に対し、高桑が興味をもったのは同じ“バレー”でもバレーボールの方だった。さらに高桑は両親がテニスをしていたこともあり、小学4年からはテニススクールに通った。学校の授業でも、もちろん好きな科目は体育。とにかくいつもトレードマークの明るい笑顔で駆け回っている活発な女の子だった。

 そんな彼女を病魔が襲ったのは小学6年の冬だった。当時住んでいた埼玉県深谷市では、市内の小学6年生を集めた運動会が行なわれていた。夏休み明けに各種目のタイムを測り、各代表が選抜された。高桑は全5種目でトップのタイムを出したというのだから、いかに彼女の運動能力が優れていたかがわかる。だが、1人1種目というルール上、全てにエントリーすることはできない。高桑にはハードルが割り当てられた。

 ところが、そのハードルの練習中に突然、左足に痛みを覚えた。捻挫だと思って地元の診療所で診察をしてもらうと、意外な答えが返ってきた。「骨肉腫」。いわゆる足のがんだった。すぐに大学病院で手術し、がん細胞を取り除いた。手術の結果、「良性」だと言われ、家族も一様に安堵した。

 やがて春になり、高桑は中学校へと進学した。その頃には手術で削った部分の骨が再生されているはずだった。だが、一向に再生されない。そこで入学直後に再び手術が行なわれた。すると数か月前、「白(良性)」と言われたのが、今度は「グレー」と言われた。そして三度、手術が行なわれ、今度ははっきりと「黒(悪性)」と診断された。その3日後、切断手術が行なわれた。6月13日、月曜日。夏の訪れがすぐそこまで来ていた。

「これ、読んで見る?」母から渡されたのは一冊の本だった。表紙には片足が義足の女性がロングジャンプしている姿が写っていた。『ラッキーガール』。著者の佐藤真海は、高桑と同じ骨肉腫で右足を切断した後、走り幅跳びでアテネパラリンピックに出場していた(その後、08年北京大会にも出場)。「早生と同じ病気の子をもつお母さんからいただいたんです。どんな本なのか、手術が終わるのを待ちながら読んでみると、佐藤さんが切断後、陸上と出合って、元気になっていく様子が描かれていました。すごく前向きな本だったので、手術後に早生に渡したんです。そしたら、すぐにベッドの上で読み始めました」

 読み終わると、高桑はポツリとつぶやいた。「私も走れるようになるかな……」。だが、この時はまだ自分が陸上を本格的にやり始めるなどとは、想像すらしていなかったという。それでも運命の糸にたぐりよせられるように、高桑は少しずつ、そして着実に陸上の世界へと歩を進めていくことになる。

 3カ月後、高桑は中学校へと復学した。本人は決して口にしないが、母・洋子はそれまでとは違う娘の様子を感じ取っていた。
「切断したばかりで最初は義足をつけながら、松葉杖だったんです。抗がん剤治療も並行して行なっていましたから、髪の毛も抜け落ちてなかった。まだ中学生でしたから、周りの子たちがそんな早生を受け入れられなかったのも仕方なかったと思います。でも、あんなに天真爛漫だった早生が、明らかに変わりました。母親の私から見ると、学校に居場所がないように感じていました」

 中学生という最も多感な時期である。何もないわけがなかっただろう。しかし、高桑は学校に通い続けた。部活動はソフトテニス部に入った。ダブルスを組み、大会にも出場した。3年生になると、それまで母親に車で送り迎えしてもらっていたのをやめ、自転車で通い始めた。1年生の途中で熊谷市に転居していたため、深谷市にある中学校までは40分ほどかかった。それでも彼女は雨の日以外は、自転車で通い続けた。こうして自ら義足での行動範囲を広げていったことが、後に陸上選手として早くから開花する要因となったことは言うまでもない。