アダム・スミスの「生きるヒント」 第7回
「『正しい人間』と『つまらない人間』を分ける最終要素とは」

第6回はこちらをご覧ください。

 「道徳規範」を身につけても、それで「正しい人間」「賢人」になれるわけではありません。その規範に従うかどうかが、結局、本人の裁量に任されているため、「正しい行動」をするとは限らないのです。

 しかし、それでは意味がありません。「善悪の判断はできるけど、悪いと分かっていて道徳に背く」のであれば、全く意味がないのです。

 何か「解決方法」がないものでしょうか? スミスは、どう考えていたのでしょうか?  もしくは、本人にゆだねるしかないと、諦めていたのでしょうか?

 その答えは、『道徳感情論』の中にありました。

誰しも「賢人」と「軽薄な人」の両面を持っている

 繰り返しになりますが、人間は、社会の中で、周りから賛同されたいがために(同感を得たいがために)、自らの中に「裁判官」を作り上げます。その意見に従うことで、世間から賛同してもらえる行動をしようとしているのです。この「裁判官」が、自分の行動の是非を判断し、その判断に従うことで、世間から賛同してもらえる「正しい行い」ができるのです。

 しかし一方で人間は、他人の評価を気にするあまり、その「裁判官」の声を無視しようとする「弱さ」を持っています。

 このように書くと、人間には2種類いると感じるかもしれません。己の心の声に従って正しく生きる「賢人」と、世間の表面的な評価に踊ってしまう「軽薄な人」の2種類です。

 しかし、そうではありません。まさにここが大事なところなのですが、人間は時と場合によって賢人にもなるし、軽薄な人にもなり得る、とスミスは考えていました。人間は誰しも「弱さ」を持った生き物なんです。

 つまり、道徳観や倫理を持ちながらも、常にそこから外れる危険性を持っている動物、それが「人間」なのです。

 しかし「人間は、賢人にも軽薄な人にもなりえる2面性がある生き物」「だから仕方がない」と片付けてしまっては何も意味がありません。「善悪の判断はできるけれど、悪いと分かっていても道徳に背く」というのであれば、全く意味がないのです。

 スミスが出した答えは、「人間が賢人であり続けるために、持っていなければいけない意識・感覚がある」でした。その意識・感覚があるからこそ、人は正しくあろうとするし、賢人(正しい人間)であろうとするのです。その重要な感覚をスミスは「義務の感覚」と呼んでいます。

 この「義務の感覚」があるかないかで、その人が賢人になるか軽薄な人になるか決まると言っても過言ではありません。これが「賢人」と「軽薄な人」を分ける最終要素なのです。

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