アダム・スミスの「生きるヒント」 第5回
「『賢人』と『軽薄な人』との分かれ道」

第4回はこちらをご覧ください。

 人間は世間の評価基準を自分の中に取り込み、「裁判官」を作ります。世間の評価は時に気まぐれになりますが、通常は本質的な評価をします。その本質的評価だけを取り入れて、自分の中に「法律」を作るわけです。そしてその法律に従って行動すれば、世間から同感(称賛・賛同)を得られる、正しい行動ができる、ということです。

 このようにして、人間は善悪の判断基準を形成するのです。

 スミスは、「人間は生来、他人からの『同感』を切望している」と語っています。そして、同感を得ようと考えれば、自然と世間の評価を取り込み、道徳観を形成していきます。ここまでは、誰しも「自動的に」行うことなのです。

 だとしたら、すべての人間は道徳的に考え、行動するはずです。しかし現実にはそうなっていません。なぜでしょうか?

 前回の最後に、「現代で道徳観が失われているのは、他人とのかかわりが少なくなったから」という考察を書きました。しかし、スミスが生きた時代にも、「道徳的な行動をする人間」とそうでない人間がいたようです。

 その理由を、スミスはこう分析しています。

「正しい人間」と「正しくない人間」

 スミスは、重要な指摘をしています。それは、自分の中に「裁判官」を作っても、「世間からの評価」は依然として受け続ける、ということです。そして、世間からの評価は、「自分の中の裁判官」の判決と食い違うことがある、ということです。

 自分の中に、正しい判断を取り込んでルール化しても、現実社会は、引き続きいろんな人が気まぐれで表面的な評価をしてきます。たとえ「他人から評価されたくない」「気まぐれな世間からは何も言われなくない」と思っていても、世間は引き続き、わたしたちを評価し続けるのです。

 「自分の中の裁判官」は、常に「本質的で正しい判断」を下しますが、世間からは「表面的な、誤った評価」がされる時もあります。

 つまり自分の行動に対する判断・評価が2種類に分かれることがあるのです。そして、その時に「どちらの評価を重視するか」が「正しい人間」と「正しくない人間」の差を生み出すことになります。

 人間は、世間の賛同(同感)を得たいと考えています。この「世間から同感(称賛・是認)を得たい」と思う気持ちは「人類に共通した、しかも最大級の望み」です。 

 ところが、時に世間は気まぐれで、本質的ではない評価をします。いくら世間に認められたいと願っているとはいえ、そのような世間の気まぐれに振り回されては意味がありません。そこで人間は、自分の中に「裁判官」を作り、その判断に従って行動しようと努力するのです。

 ただしその結果、人間は「自分の中の裁判官」と「社会(周囲の人)」の2人から行動を評価されることになりました。この時、「『裁判官』からの評価」と「社会からの評価」は同じ場合もあれば、違う評価が下されることもあります。

 両者から同じ評価が下されれば迷うことはありません。評価が「正しい」「間違っている」のいずれでも、その評価自体は正当なものとして受け入れざるを得ません。

 しかし、この2者からの評価が異なった時、どちらの「判決」に従うかが、人によって分かれるのです。そして、それが人間が「賢人になれるかどうかの分かれ道」だったのです。

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