自公民談合には茨の道が待っている! 多様な選択肢を提示できなければ3党が存在する意味はない!
野田首相は「決められない政治」から脱却できたのか〔PHOTO〕gettyimages

 民主党が分裂して、小沢新党「国民の生活が第一」が誕生した。むろん、民主党内の権力闘争の色彩が濃いが、その闘争に勝ったはずの野田首相ら執行部側も、大きな犠牲を払うことになろう。

 マスコミ、とくに「知性」を売り物にする中央紙などは、「決められない政治」から脱却したとして、野田首相の政治的能力を高く評価している。消費税増税にしても、それに理解を示す方がインテリであるかのような風潮である。

 しかし、「悪いこと」を決めるのなら、決めないほうがましであるし、庶民の生活感覚のほうが知識人の机上の空論よりも正しい方向を示していることもある。

バラマキのメカニズムが生まれる危険性

 多様な価値観が存在する現代社会において、多様な政策選択肢を提示することこそ、政党の役割である。民主党と自民党と公明党が、将来の税制や社会保障のあり方について、同一の政策しか示さないようでは、何のために三つの政党があるかわからない。すべて玉虫色で済ませてよいのであろうか。

 政府や三党の責任者の国会答弁を聞いていると、自分に都合の良いような解釈ばかりを述べ立てている。たとえば、最低保障年金については、7月10日の参議院予算委員会で、野田首相は、私の質問に対して、その政策は捨てていないと答弁している。

 しかし、自公は、民主党が最低保障年金案を取り下げたと主張している。どちらが正しいのか。こども手当や後期高齢者医療制度の廃止についても、民主と自公とが、それぞれに都合のよいような解釈をしている。そして、「全ては国民会議に委ねる」という逃げ口上が用意されている。

 これでは、自公政権のときの政策決定とどう違うのか。小泉政権以降、少なくとも官邸の機能強化という意味で、経済財政諮問会議が一定の機能を果たした。それは、政官業の癒着を断ち切り、族議員の跋扈をおさえる方法でもあった。増え続ける社会保障のニーズに応えるために、厚生労働大臣として、私は財源不足で苦労したが、聖域無き行政改革とは、ある意味でそこまで徹底しないかぎり不可能なのかもしれない。

 今回設置が決まりそうな社会保障国民会議には、経済財政諮問会議が果たしたような機能は想定されていない。社会保障の分野も聖域ではないのである。これでは、国民会議を隠れ蓑にしたバラマキのメカニズムが生まれてくる危険性がある。

 民主党の理想である弱者保護と自公のバラマキ路線が合体すればどうなるかは、明白である。しかも、東日本大震災という未曾有の危機に対して、大規模な財政支出を余儀なくされている。使い切れない予算が1兆円を超えているのが現状である。

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