子供に多様な選択肢を用意するのが大事。一般社会で許されない犯罪が校内では「いじめ」として刑事罰から逃れている異常事態を正そう

文:森口朗(教育評論家)

 現在「いじめ」と総称されている現象は、思春期特有の軋轢から凶悪犯罪に至るまで多種多様である。「いじめ」と総称されている現象にもしも共通項があるとするならば、それが等しく学校における病理現象であるという点だけだろう。いじめに対する対策を考える場合、我々は、このような多種多様な病理現象に対して、唯一無二の対策などあるはずがないということを原点とする必要がある。

 私は3年前に長野県の中学校で実践されているいじめ対策を「この『いじめ対策』はすごい」というタイトルで自分自身のブログで紹介した。この対策は、よほど人々の関心を呼んだのか、大きないじめ事件が起きるたびに何度も、他のブログやツイッターで紹介された。今回の大津市の事件においても同様である。

 しかし、当然のことながらこの対策とて決して万全ではない。詳細は拙ブログ本文に譲るが、ここで紹介した手法では加害者本人の心からの反省を期待し、その表れとして加害者が涙を見せる点を重視している(もちろん現場では涙を見せなくてもよしとする場合もあると思う)。しかし、都会の一部の学校では中学3年学生ともなれば、不良達の中には暴力団の準構成員になっている者もいる。彼らに本ブログで紹介したような牧歌的な対策に効果があるとは限らないだろう。

 また、私は傷害や暴行、恐喝などの凶悪犯罪が起きた場合には学校は躊躇せずに警察に告発すべきであるし、告発するどころか学校関係者が共謀して隠蔽した場合には、彼らを懲戒処分とする「いじめ防止条例」を制定すべきであると主張している。この主張は学校も市民社会と同様に法の下に置こうという考え方を基礎としているが、これとて警察が介入するためには加害事実を証明する確たる証拠が必要であり、それを収集する責任は基本的には被害者にある。

 もし、これを教員など学校経営サイドに求めるならば、多くの学校はナーバスないじめ被害主張者に忙殺されるからである。しかし、いじめ被害者が100パーセント証拠収集に成功するとは限らず、万一失敗した場合には、いじめがより巧妙かつ残酷なものになるだろう。これは一般社会の犯罪被害者と加害者の関係とパラレルである。

 いじめ解決の手段として、おそらく最も抜本的かつ汎用性が高いのは明治大学の内藤朝雄準教授が唱える学級制度を解体するという手法だろう。内藤氏によれば思春期の青少年を学校という狭い空間に閉じ込め、逃げ場を封鎖して強制的にベタベタさせればいじめが起きるのは当然だという認識に基づいて、ベタベタした付き合いの前提になっている学級自体を破壊しようというものである。小中高よりも大学や予備校では圧倒的にいじめが少ない現実は、内藤氏の主張の正しさを裏付けていると思う。

 私は、内藤氏の主張が「学級の存在しない学校、例えば単位制中学校のようなものも義務教育の中に盛り込むべきである」というものであれば大賛成である。しかし、もしも「すべての学校から学級をなくせ」という主張であるならば賛成することはできない。なぜなら、学校にとって「いじめ」を無くすことは決して主たる目標ではないからだ。