アダム・スミスの「生きるヒント」 第4回
「なぜ道徳観が失われたのか?」

第3回はこちらをご覧ください。

「人間は他人からの『同感』を切望する生き物である」

 要するに、人間は他人の目を気にして、他人から自分の意識や行動を是認してもらいたいと切に願っているのです。

 この分析がスミスの理論の根幹にあります。この「同感」を基に、スミスは道徳論を展開し、また経済学を創ったのです。

 しかし、ここで考えてみてください。「他人の目」を気にすると言っても、現実的には全員から良く思われることは不可能です。

 世の中にはいろんな価値観の人がいますし、同じ人でもその時の「虫の居所」によっては他人の行動に違う評価を下すこともあります。世の中は非常に「気まぐれ」で「公正ではない」ことがあるのです。

 また、現実社会を考えてみると、そこにはいろんな利害関係が絡み合っています。そのため、万人から受け入れられ、よく思われることは不可能です。特に利害関係がある場合には、「あちら立てればこちらが立たぬ」という状態になります。

 たとえば、会社で1人しか採用できない枠に2人応募してきたら、どちらかを落とさざるを得ません。しかし、落とされた人は不満に感じ、皆さんを批難する可能性もあります。悪いことをしているわけではないのに、批難されてしまうわけです。

 ここでわたしたちは「全員の目を気にしてはいられない」ということに気がつくのです。

 では、誰の目を気にすればいいのでしょうか? 誰の判断基準に合わせればいいのでしょうか?

 ここがスミスの主張で重要になるポイントです。

 自分が判断を仰ぐべき相手は、もはや「特定の誰か」ではありません。なぜなら、その人の評価は気まぐれかもしれないし、また、特定の人物に称賛されても他の大多数に批難されるということも起こりえるからです。

 要するに、「特定の誰か」に絶対的な基準を求めることはできないのです。気分や感情に流されず、善悪の判断を普遍的にしてくれる裁判官のような「ブレない評価者」が必要になるわけです。

 人によっては、「師匠」や「メンター」がいて、その人の意見に100%従って生きるという場合もあります。しかし、何か行動をするたびに、師匠にお伺いを立てられるわけではありません。また、いくら自分が尊敬していても、その人の判断が必ずしも世間の判断と一致するわけではありません。その人が「いい」と言っても、世間では「悪い」と評価されている可能性もあるのです。

 では、どうすればいいのか?

 スミスは、自分が気にするべき「相手」は他人ではなく、自分の中に設けた「基準」だと説いたのです。「正しい判断」「周囲から認められる行動」をするためには、要は、社会全般で標準的な判断基準があればいいわけです。スミスはその基準を「自分の中に作る」と考えました。

自分の中に「仮想・社会の目」を作る

 常に参照できる、しかも偏りのない道徳基準を周囲に求めることはできません。そのため、結局は自分の中に善悪の判断基準を持つようになるとスミスは考えました。つまり、人は自分の中に「偏りがない、善悪の判断基準」を持つ、「善悪のジャッジ(裁判官)」を持つのです。

 自分の中に、自分の人格とは別の「裁判官」「評価者」を作って、その「裁判官」の顔色をうかがいながら、自分の行いが賛同されるべきものなのか、批難されるべきものなのかを判断して行動するというわけです。

 スミスはこの「裁判官」を「公正な観察者」とも呼びました。わたしたちの行動を、公正な目で観察し是非を判断する「公正な観察者」です。

「結局、行動の善悪は、自分で判断するということか?」と感じるかもしれません。ですが、それは違います。ここは非常に重要なポイントです。

 人間は自分の中に作った「裁判官」の判断に従って、自分の行動の善悪を判断するようになります。「裁判官」自体は、自分の中に作りますが、裁判官が持っている「法律(判断基準)」は世間の声を基に創らないといけないのです。

 つまり、裁判官が参照している「法律」は、社会の意見なのです。

 社会が一般的に何を「善」として、何を批難するかを考え、「世間の判断基準」を自分の中に取り込んでいきいます。それが「道徳規準」になるのです。

 社会の「本質的」な判断基準を取り込んだ「裁判官」は「仮想・社会の目」と考えられます。その「裁判官」に従っていれば、社会から同感が得られる、というわけです。

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