俳句を事業とした文芸界の大立て者、
高浜虚子---その人生の広大さ
近代の俳人Vol.2

vol.1はこちらをご覧ください。

 正岡子規は、まがう事なく近代俳句の祖である。

 けれども、現在に至る---俳句人口一千万人ともいわれる---隆盛を産んだのは、高浜虚子であった。

高浜虚子 旧・丸ビルにあった俳句雑誌『ホトトギス』発行所で、虚子(1874~1959)が佇む

 虚子は、近代俳人のなかでも屈指の名人である。

 第一人者である、と云ってもさほど異議は起こらないだろう。

 虚子は俳句を作ることだけに、満足する事はなかった。

 俳句は、虚子にとって事業であった。

 師である正岡子規が死んだ後も、虚子は『ホトトギス』を発行し続けた。

 夏目漱石に連載を依頼し、『吾輩は猫である』をベストセラーにした事は、文学史のエポックとなった。もっとも虚子としては、漱石が大作家になるという目算はなく、旧師子規の親友で、いつも鬱いでいる漱石に、気晴らしにでもなるか、というぐらいの心持ちだったのだろうが。

弟子に冷徹な評言を、憚ることなく浴びせた

 村上鬼城、原石鼎、水原秋桜子、山口誓子、前田普羅、飯田蛇笏、高野素十、富安風生、山口青邨、川端茅舎、中村草田男、星野立子、杉田久女・・・・・・虚子門下の俳人は、枚挙に暇がない。

 種田山頭火、尾崎放哉などの自由律俳人を除けば、近代俳句の系譜と拡がりは、ほぼ虚子の膝下から出たものだといってもいいだろう。

 豊富かつ多様な弟子たち---たとえば秋桜子は、東大医学部産婦人科の医師であり、皇室の侍医を務め、昭和医学専門学校(現・昭和大学)の創設者でもあったし、山口誓子は住友財閥の幹部役員であった。一方で原石鼎や前田普羅のような、放浪者もいた---の活躍もあって、『ホトトギス』は、全国津々浦々に句会を組織し、地方の指導者を養成し、弟子、孫弟子を生み、盤石の体制を固めた。

『ホトトギス』の発行所は、丸ビルの最上階八階に置かれており、その点で虚子は、菊池寛と並ぶ、出版界、文芸界の大立て者だと云うことが出来るだろう。

 芸術院会員であり、文化勲章を受章した虚子の人生は、俳句というミクロな世界の深さ、広大さを象徴しているようにも見える。

去年今年貫く棒の如きもの
初空や大悪人虚子の頭上に
北風や石を敷きたるロシア町
草摘に出し万葉の男かな
白牡丹といふといへども紅ほのか
流れ行く大根の葉の早さかな

 松本清張に、『菊枕 ぬい女略歴』という短編がある。

 虚子の弟子だった、杉田久女をモデルとした小説である。

 久女の父は、大蔵省の事務官であった。東京女子高等師範学校付属お茶の水高等学校を卒業し、画家の杉田宇内と結婚したが、杉田は芸術上の野心に乏しく、久女のプライドを満足させなかった。

 杉田が図画教師として小倉に赴任した際、次兄赤堀月蟾の勧めにより俳句をはじめ、『ホトトギス』で頭角を現した。

 久女は虚子に傾倒するあまり、常軌を逸した行動をしたと、伝えられている。

 松本清張は、昭和十一年に虚子が洋行に出た際の久女(ぬい女)の行動を、以下のように書いている。文中の栴堂が虚子である。

「ぬいは下船してまた門司に上がり、昂ぶる気持にすぐにも立ち去りかねていると、箱根丸からランチが離れてこちらにくるのが見えた。それは栴堂の一行が他の船客や見送人と一緒に海峡にのぞむ和布刈岬に吟行するためだった。一行が桟橋から上がって、待たしてある自動車に乗りこむ姿を遠くから目撃すると、ぬいはたまらずに走りよった。しかし、もう栴堂も他の者も車内にはいっていた。/『先生、先生、わたくしもお供させてください。』/ぬいは自動車のステップに片足をかけようとしたが、内側からばたんと音たてて、扉が閉まった。走り出る車内の中央には、澄んで端正な六十何歳かの栴堂の横顔が、ちらりと見えただけであった。ぬいは声を上げて哭いた。/それでも、ぬいは栴堂が帰朝するまではと思った。その栴堂は数ヵ月間、ヨーロッパをまわり六月に横浜にかえった。/しかし、ぬいは『コスモス』同人を除名されただけであった」

 近年、久女に対する再評価がなされている。伝えられてきたエキセントリックな行動は、過度の誇張を伴って流布されたものであり、実際の久女とは、乖離がある、という説も唱えられるようになった。

足袋つぐやノラともならず教師妻  久女

 昭和五年、水原秋桜子ははじめての句集『葛飾』を上梓した。

 秋桜子は慣例に反して、虚子に序文を仰ぐ事をせず、自ら序文を書いた。

 虚子に対する積年の不満が―虚子が経営を第一として、句作を等閑にしている事、『花鳥諷詠』を第一義として、新機軸を拒否しつづけていた事―、弟子としての礼節を忘れさせた、という形になった。

 初版五百部は即日売り切れ、すぐに版を重ねた。

 丸ビルの『ホトトギス』発行所に、ある午後、虚子を訪ねた。

 発行所には、虚子が一人で居たという。

「『葛飾の春の部だけをきのふ読みました。その感想をいひますと・・・・・・』ここで一寸言葉をきつたのち『たつたあれだけのものかと思ひました』と言つた。私は/『まだまだ勉強が足りませんから』と答へたが、心の中では、やはり想像してゐた通りだと思つた。(中略)虚子はまたしばらく黙つてゐてから/『あなた方の句は、一時どんどん進んで、どう発展するかわからぬやうに見えましたが、この頃ではもう底が見えたといふ感じです』と言つた。これもまさにその通りかも知れないと、私は心の中で苦笑しながら返事をしなかつた」(『高浜虚子 並に周囲の作者達』)

 秋桜子は、社会的地位もあり、虚子にたいして一定の距離を構えて、対峙する事が出来たろう。とはいえ、初の句集を出した弟子にたいして、大人げのまったくない、冷徹かつ野蛮な評言を浴びせて、憚る事のない虚子の恐ろしさは測りがたい。

「週刊現代」2012年6月30日号より

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら