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「創業100年企業の血脈」
最終回 JTB「戦時中にユダヤ人を救った友愛の精神」

創立者の木下とは、三重県立第三中(現、上野高)の先輩後輩の関係にあった高久。1928年から1942年まで幹事だった(北出氏提供)

 短期集中連載 今年、創業100周年を迎える日本を代表する企業。現在、苦境に喘ぐものも多いが、日本経済を牽引してきた名門企業の原点を振り返った

 観光庁は現在、外国人の訪日旅行者を将来的に3000万人とする「ビジット・ジャパン事業」を提唱している。

 実はちょうど100年前にも、訪日を促進するための団体が作られた。それが「ビジット・ジャパン事業」の中心メンバーでもある日本最大の旅行代理店『JTB』の前身『ジャパン・ツーリスト・ビューロー』(以下、ビューロー)だ。

 ビューローを世界的な代理店として成長させたのは、創立者の木下淑夫(1923年没、享年49)と、3代目の幹事(事実上のトップ)・高久甚之助(1953年没、享年66)だろう。JTB「100周年事業推進委員会」事務局の調査役・佐藤年秋氏が、二人に功績について解説する。

「木下はビューローの経営の青写真を描き、高久は1942(昭和17)年に社団法人から財団法人に改組して、現在のJTBの基礎を築きました。JTBには、今でも彼らから受け継がれる思いがあります。外国人の日本人に対する偏見をなくし、人的交流を通じて相互理解を深めようという〝友愛の精神〟です」

戦争には強いが野蛮な国

 1905(明治38)年9月、日本は日露戦争に勝ち戦勝国となった。だが欧米諸国には「日本は戦争には強いが文化的に遅れた極東の国」という偏見が広がっており、日本人差別にもつながっていたのである。そのような状況下で、日本への理解を深めるために「積極的に国が外国人旅行者を誘致すべきだ」と主張した鉄道庁(現、国土交通省)の若きエリートがいた。当時30歳だった木下だ。

 木下は1874(明治7)年9月、京都府熊野郡神野村(現、京丹後市)の酒蔵の長男として生まれ、1898(明治31)年に東京帝国大学(現、東京大学)工学部を卒業。1899(明治32)年に鉄道局(後に鉄道庁、鉄道院、鉄道省と改編)に入り、1904(明治37)年からは官費でヨーロッパへ留学する。ここで木下が体験したのは、欧米諸国での日本に対する無知と無理解だった。JTBの幹部たちのエピソードを集めた『この人々』(日本交通公社出版)の中には、木下の歯軋りをするような悔しい思いについて、このような記述がある。

〈六十年前木下の周囲に居る英米人は日本のことについての知識が少しもない。日本のよいところを説明しても理解してくれず、日本は戦争にだけ強い、文化程度の低い野蛮国としか思っていない状態であった。(中略)なんとかして自分の周囲の外人だけでも日本贔屓にしたいとあせったが当時の日本のことを書いた英・仏・独語の書物一冊すらなかった〉