野球

二宮清純「榎本喜八の伝説」

二宮 清純 プロフィール

「まだ修行中の身」

 榎本さんは「鬼才」と呼ばれただけあって風変わりな人でした。引退後は球界との関係を一切断ち、ひとりでトレーニングに明け暮れていた時期もあります。ひそかに現役復帰を目指していたのでしょう。

 話を聞こうと中野の自宅にまで何度か“夜討ち朝駆け”をやりましたが、一度も扉を開いてはいただけませんでした。ある時、ビュンビュンと不思議な音が聞こえるので高い塀のすき間からのぞくと、鬼のような形相で榎本さんがバットを振っていたことがありました。その姿には文字どおりの殺気が漂っていました。

 一度だけ電話でお話することができました。取材の意図を説明すると一瞬、沈黙があり、数秒後、榎本さんはこんな言葉を発しました。

「私はまだ修行中の身ですから……」
「……修行中ですか?」
「はい。まだ修行中です」

 ここで電話はガチャンと切られました。実は榎本さんには剣豪・宮本武蔵にちなんで「野球・五輪書」を書いてもらおうと考えていたのですが、私の願いが届くことはありませんでした。

 それにしても、と思います。プロ野球史上最強とも言われる打者の訃報が、こんなにも小さな扱いとは……。私にも少々の責任はありますが、残念でなりません。合掌。