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「創業100年企業の血脈」
第一回シャープ「歴史はシャープペンから始まった」

 短期集中連載 明治から大正に移る頃、産ぶ声を上げた企業が今年、創業100周年を迎える。現在、苦境に喘ぐものも多いが、日本経済を牽引してきた名門企業の原点を振り返った

 今から100年前の1912年、日本の元号は明治45年から大正元年に変わった。この年に創業し現存している企業は、帝国データバンクによると1854社。そうした中から、日本経済を牽引してきた名門企業の栄枯盛衰を紹介していく。

『アクオス』などの液晶テレビや携帯、液晶パネルで日本のトップを走り続けてきた総合家電メーカーの『シャープ』に激震が走った。'12年3月14日に、「液晶王国」を支えてきた、町田勝彦会長(68)と片山幹雄社長(54)が揃って退任。奥田隆司常務執行役員(58)が、社長に昇格する人事を発表したからだ。

 シャープは液晶などの高い技術を武器に、デフレ時代を生き残ってきた数少ない勝ち組である。片山は'07年4月に、49歳の若さで社長に抜擢された。「メーカーの社長は10年の在任期間が必要だ」とする町田の強い思いから、〝長期政権〟を求められての若返り人事であった。

 ところが、片山が社長を務めたのはわずか5年。頼みの液晶事業が不振で、志半ばでの退任である。'12年3月期の連結決算では、最終損益が過去最大の約3800億円の赤字に転落する見通しだ。創業100年を迎えるシャープにとって、存亡の危機と言っていいだろう。

 だがシャープが窮地に追い込まれたのは、今回が初めてではない。創業者の早川徳次('80年没、享年86)は、何度も会社破綻の危機を切り抜けてきた。逆境のたびに、庶民のニーズに合った日本に存在しない製品を発明し、ピンチを脱してきた早川の人生を振り返りたい---。

 早川は1893(明治26)年11月3日、東京・日本橋の『枡屋』という袋物問屋を営む早川政吉、花子の1女2男の末っ子として誕生した。当初はミシンでシャツなどを縫う仕事で羽振りがよかったが、過労から両親が相次いで病床に臥す。早川が1歳のことである。そのため養子に出された早川だったが、この家がとんでもないところだった。シャープ社史編纂室の千原康志室長が説明する。

「最初の養父母は可愛がってくれたのですが、養母が急病で亡くなり、後妻としてやってきた若い女性に、早川はいじめられるようになりました。小学校にも途中で行かせてもらえなくなり、家で内職の手伝いをさせられた。本人にとっても非常につらい時期だったと思います」

 早川自身、後に次のように記している。

〈養家先というのが極貧だったうえ、間もなく養母が亡くなり、二度目の継母がひどく私にあたって三度の食事さえ満足に食べさせてもらえない状態だった〉(『私の履歴書』日本経済新聞社)