中国
稀代の怪僧・鑑真和尚の2大ミステリー
暮色につつまれる揚州の街から感受したひとつの答え

江沢民前主席の故郷として知られる揚州〔PHOTO〕gettyimages

 先週、中国は「清明節」の5連休だった。清明節とは、日本で言うお彼岸であり、祖先の墓参りと墓掃除をする日だ。そして概ね、この日を境に冬型の天候から夏型の天候に変わっていく。

 清明節の祝日は4月4日の1日だけだが、中国政府はそれにかこつけて、事実上の5連休を国民にプレゼントした。「為人民服務」(人民に奉仕する)を標榜する中国政府による今回の大盤振る舞いの本当の理由は、内需拡大策が思うように進んでいないことにある。

 中国は2008年秋の世界的金融危機以降、輸出型経済成長から内需拡大型経済成長への転換を図っているが、物価だけ急上昇して所得が伸び悩んでいることや、社会保障制度の整備が遅れているため、内需が思うように拡大していかないのである。そこで2009年以降、何かにかこつけて休日を増やしている。実際、この窮余の策はそれなりの効果をあげていて、清明節の連休中も、どこへ行っても「人山人海」(黒山の人だかり)だった。

 だいぶ前置きが長くなったが、中国に参るべき墓のない私は、古代の日中外交史に燦然たる足音を残した中国人僧侶---鑑真和尚を参る旅に出ることにした。

 北京南駅から京沪高鉄(北京-上海新幹線)で鎮江南駅まで4時間半ほど下り、そこからタクシーを飛ばして30分ほどで、江蘇省の古都・揚州へ着いた。いまでは江沢民前主席の故郷として知られる町だが、古代には、長安(西安)と洛陽に次ぐ「中国第3の都市」として、大いに栄えた。

 そんな揚州の町に、西暦688年(唐の則天武后4年)に生まれたのが、鑑真和尚である。

 鑑真のことは、日本人は小学生でも知っている。日本に仏教を広めるため、6度にわたって日本への渡航を試み、盲目となりながら、ついに訪日に成功。奈良に唐招提寺を建て、その後の日本文化と学術の発展に多大な貢献を果たした唐の高僧と、歴史教科書に書いてある。中国人が日本に建設した初の寺院である唐招提寺は1998年、国連の世界遺産にも登録された。

訪日へのあくなき挑戦

 私は3年前に北京に住み始めて以来、日中2000年の交流史を調べる中で、鑑真という僧侶が、上記のような単純な記述では済まされない「稀代の怪僧」であることを知り、興味を募らせた。そして、鑑真を巡る「2大ミステリー」を、自分なりに解き明かしたい思いに駆られたのだ。「2大ミステリー」とは、ひとつには「訪日決意の謎」であり、もうひとつは「訪日固執の謎」である。

 鑑真に最もゆかりのある寺と言えば、揚州の中心を占める広大な庭園「痩西湖」(杭州の西湖のミニチュア版のように美しいことから命名された)の北端に位置する名刹・大明寺である。隋代の西暦604年に建設が始まった大明寺は、「揚州の象徴」である高さ73mの九重の塔・栖霊塔を擁する。最近では、日中国交正常化の翌年、1973年に、寺所の北端に日中共同で鑑真記念堂が建てられた。

 私は夕刻に、栖霊塔の頂上にあたる9階まで登った。まさに雲上の絶景である。その後、春の微風が頬に吹きつける中、階下の鐘楼から聞こえてくる鐘音に耳を澄ましながら、そして街全体が徐々に赤く染まりゆく様を俯瞰しながら、1時間以上にわたって、まるで仏像のように瞑想に耽り、「2大ミステリー」について想いを巡らせたのだった。

<その1 訪日決意の謎>

 仏教華やかなりし盛唐の時代、中国の僧侶たちは、東ではなく西、すなわち仏教の聖地であるインドの方角を向いていた。だからこそ、インドから仏典を持ち帰った玄奘法師が中華民族のヒーローとなり、西遊記の物語まで作られたのだ。

 それに較べて、東の果ての日本のことなど、唐の高僧たちは一顧だにしなかった。奈良時代になって日本でも、唐の影響を受けて仏教ブームが起こるが、まともに戒律を教えられる僧侶がいない。当時の日本は、農民が税金逃れのために自家製の袈裟を着て歩いているような「仏教後進国」だったのだ。

 そこで聖武天皇の密命を帯びた栄叡と普照という2人の日本人僧が、第9次遣唐使船に乗って訪中し、訪日してくれる唐の高僧を物色した。だが10年近くにわたって、唐の都・長安と副都・洛陽で片っ端から高僧に面会し、訪日を要請するが、ことごとく門前払いを喰らう。2人は意気消沈して帰国の途上で揚州に立ち寄り、最高位の鑑真和尚に面会し、誰か弟子を紹介してくれないかと懇願する。

 ところが揚州でも、弟子の高僧たちは皆、知らぬ顔。それを見た鑑真が、「ならば私が行こう!」と名乗り出るのだ。

 当時、揚州随一の名僧と、帝都・長安にまでその名声が轟いていた鑑真が、なぜ名誉や安逸な生活を捨てて、あえて極東の僻地へ下る決意をしたのか。そもそも当時は個人の海外渡航が禁止されていたので、重罰を覚悟した密航になる。

 加えて当時の拙い航海技術では、40日間の船旅の間に船が沈没する確率の方がはるかに高かったのである。かつ幸い訪日を果たせたとしても、当時55歳の鑑真にしてみれば、二度と故郷の地を踏めない可能性が大だった。それを敢えて「日本へ行く」と決意した動機は、一体何だったのか?

<その2 訪日固執の謎>

 西暦743年の春、鑑真は21人の弟子を引き連れ、船を調達して日本への最初の密航を企てる。ところが、訪日団要員から外された朝鮮人の弟子・如海が、嫉妬心から「倭寇が町の食糧を強奪し、鑑真師匠の誘拐を企てている」と役所に内報する。これで一行は一網打尽となった。これが1度目の渡航失敗である。

 鑑真は挫折にめげずに、再度の渡航を決意する。同年暮れ、全財産をはたいて調達した船と、工匠から画家まで185人を引き連れて出発したが、上海近海の舟山群島で船が座礁して失敗した。

 3度目は翌744年春、地方行脚に出るフリをして、遠く越州(いまの浙江省紹興)から渡航を図るが、天下の名僧に残ってほしい越州の当局に拘束されて、またもや失敗した。

 鑑真は、それでも諦めない。同年秋、今度は福州(いまの福建省福州)から密航を図るが、出発の前日に再度、一網打尽となった。愛弟子の霊佑が、揚州の高僧らと連名で反対運動を起こして、密告したのである。これが4度目の失敗である。鑑真は揚州最高の名僧であることから、逮捕・拷問は免れたものの、この時以降、当局の厳重な監視下に置かれた。

 だがこの名僧、それでもめげなかった。3年半、素知らぬ顔で日々の業務に勤しみながら、監視が弱まる時をじっと待った。そして還暦を迎えた748年春、再び全財産をつぎ込んで、5度目の渡航に出たのである。だが密航には成功したものの、大洋上を漂流したあげく、餓死寸前の中、中国最南端の海南島に漂着する。この時、陸路で揚州への帰途に、疲労が蓄積して両眼を失明してしまう。これが5度目の失敗だ。

 鑑真は、その後さらに5年間、辛抱する。そして65歳になった西暦753年10月、日本に帰国する遣唐使船に密航するという荒業で、ついに訪日を果たしたのだった。10年間で36人の弟子が渡航中に死亡し、280人以上の弟子が渡航を放棄したという。それにもかかわらず、鑑真がここまで日本への渡航に固執したのは、一体なぜだったのか?

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