川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」

薩摩藩士の気概に脱帽
植民地化の危機を脱するため命を賭して学問を続けた男たち

2012年03月09日(金) 川口マーン惠美
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「維新ふるさと館」HPより

 関西、山陰を経て、今、九州にいる。鹿児島では『維新ふるさと館』が面白かった。薩摩の近代史が明治維新への動きと密接に繋がっていることは知っているつもりだったが、ここを訪れると、いかに多くの優秀な人物が当地から輩出したかということに改めて驚かされる。そして、鹿児島の人たちが、今日もそれを誇りに思っていることも、手に取るようにわかる。

 鹿児島の人々が誇りに思っている偉人は、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎ほか数あるが、その中の一人が島津斉彬(なりあきら)。1809年生まれの島津家の殿様で、薩摩藩11代目の藩主だ。先見の明に優れ、外国の出来事にアンテナを張っていた。いや、外国の出来事にアンテナを張っていたから、先見の明があったというほうが正しいだろう。鎖国中の日本でアルファベットを学び、たとえば、1840年のアヘン戦争で中国が英国の餌食になった経緯なども詳しく知っていた。だから、国内で争っている暇はない、国を挙げて励まねば、日本も植民地化されてしまうと危惧を覚え、富国強兵、殖産興業を進めた。できれば、現在の日本の政治家にも、このような広い視野を持ってほしいものだ。

 鹿児島市郊外の磯というところに、「仙厳園」という島津家の別邸がある。噴煙を吐く桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な庭園が美しい。そして、その敷地内に、大砲を造るための反射炉の跡がある。嘉永4年(1851年)に藩主となった斉彬が造らせたものだ。

 いや、それだけではない。隣接地には、造船、造砲、紡績、硝子、印刷、電信など、様々な分野に及んだ一大工場群も建設されていた(現在はその跡地に尚古集成館という記念館が建っている)。まだ、開国してもいない頃、このような技術革新的な動きがあったことが信じがたいが、おそらく江戸から遠かったという条件が有利に働いたのだろう。いずれにしても一つだけ確かなことは、当時の薩摩は決して田舎ではなかったことだ。それどころか、日本中のどの藩よりも進歩的な考え方で、世界を視野に入れて力強く動いていた。ゆえに、幕府が一番警戒していた危険分子でもあった。

 そういえば、現在、鹿児島の特産品である薩摩切子も、やはり斉彬が着目し、奨励したものだそうだ。国を豊かにするためには、外国との交易の際、輸出品が必要であると考えた末のことである。「日の丸」を、日本の船であることを示す総船印(ふなじるし)とするよう幕府に提案したのも斉彬であったというから、貿易、そして、それを可能とする大型船の造船が、よほど強く頭の中にあったと思われる。

 斉彬はまた、医療、福祉にも力を尽くし、「国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の和はどんな城郭よりもまさる」と言ったと伝えられる。非常に啓蒙的な思想だ。反射炉建設に取り組んだ担当者が、建設がうまくいかず諦めかけたときには、「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、退屈せず(くじけず)研究すべし」と励ましたというが、これらのエピソードを聞くうちに、こんな藩主なら絶対主義も悪くないかとさえ思えてくる。

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