ドイツ
薩摩藩士の気概に脱帽
植民地化の危機を脱するため命を賭して学問を続けた男たち

「維新ふるさと館」HPより

 関西、山陰を経て、今、九州にいる。鹿児島では『維新ふるさと館』が面白かった。薩摩の近代史が明治維新への動きと密接に繋がっていることは知っているつもりだったが、ここを訪れると、いかに多くの優秀な人物が当地から輩出したかということに改めて驚かされる。そして、鹿児島の人たちが、今日もそれを誇りに思っていることも、手に取るようにわかる。

 鹿児島の人々が誇りに思っている偉人は、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎ほか数あるが、その中の一人が島津斉彬(なりあきら)。1809年生まれの島津家の殿様で、薩摩藩11代目の藩主だ。先見の明に優れ、外国の出来事にアンテナを張っていた。いや、外国の出来事にアンテナを張っていたから、先見の明があったというほうが正しいだろう。鎖国中の日本でアルファベットを学び、たとえば、1840年のアヘン戦争で中国が英国の餌食になった経緯なども詳しく知っていた。だから、国内で争っている暇はない、国を挙げて励まねば、日本も植民地化されてしまうと危惧を覚え、富国強兵、殖産興業を進めた。できれば、現在の日本の政治家にも、このような広い視野を持ってほしいものだ。

 鹿児島市郊外の磯というところに、「仙厳園」という島津家の別邸がある。噴煙を吐く桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な庭園が美しい。そして、その敷地内に、大砲を造るための反射炉の跡がある。嘉永4年(1851年)に藩主となった斉彬が造らせたものだ。

 いや、それだけではない。隣接地には、造船、造砲、紡績、硝子、印刷、電信など、様々な分野に及んだ一大工場群も建設されていた(現在はその跡地に尚古集成館という記念館が建っている)。まだ、開国してもいない頃、このような技術革新的な動きがあったことが信じがたいが、おそらく江戸から遠かったという条件が有利に働いたのだろう。いずれにしても一つだけ確かなことは、当時の薩摩は決して田舎ではなかったことだ。それどころか、日本中のどの藩よりも進歩的な考え方で、世界を視野に入れて力強く動いていた。ゆえに、幕府が一番警戒していた危険分子でもあった。

 そういえば、現在、鹿児島の特産品である薩摩切子も、やはり斉彬が着目し、奨励したものだそうだ。国を豊かにするためには、外国との交易の際、輸出品が必要であると考えた末のことである。「日の丸」を、日本の船であることを示す総船印(ふなじるし)とするよう幕府に提案したのも斉彬であったというから、貿易、そして、それを可能とする大型船の造船が、よほど強く頭の中にあったと思われる。

 斉彬はまた、医療、福祉にも力を尽くし、「国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の和はどんな城郭よりもまさる」と言ったと伝えられる。非常に啓蒙的な思想だ。反射炉建設に取り組んだ担当者が、建設がうまくいかず諦めかけたときには、「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、退屈せず(くじけず)研究すべし」と励ましたというが、これらのエピソードを聞くうちに、こんな藩主なら絶対主義も悪くないかとさえ思えてくる。

 ただ斉彬は、あまりにも早く亡くなってしまう。その死が急で、かつ、不自然であったため、相続争いをめぐる毒殺であったという疑いが今も濃い。その後は異母弟の久光の長男、島津忠義が藩主となり、斉彬の改革路線を踏襲した。

生麦事件と重なるコーラン焼却事件

 斉彬が亡くなって4年後の1862年、生麦事件が起こる。斉彬の実質的な後継者、島津久光が軍勢400名あまりを率いて江戸から京都へ向かっていた最中に、乗馬中のイギリス人4人(うち女性が1人)が、久光の行列に正面から乗り入れてきた。行列の先頭にいた薩摩藩士たちは驚き、下馬するよう説明したが、4人は馬から下りずにそのまま行列の中を逆行し、鉄砲隊を突っ切り、久光の乗る駕籠のすぐ側にまで近付いてしまった。もちろん、藩士たちは殺気立った。

 ようやくただならぬ気配に気づいた4人は、方向を変えようとしたものの、あたりかまわず無遠慮に動いたため、行列はさらに乱れ、ついに数人の藩士が斬りかかった。その結果、上海の商人で日本観光中だったリチャードソンという男が死亡、他2人が重傷。女性が帽子と髪の一部を切られただけで無傷だったのは、薩摩藩士の腕が狂ったわけではなく、おそらく女性だからわざと斬らなかったのだろう。事件の起こったのが、当時の武蔵国の生麦村(現在は横浜市)だったので、生麦事件と呼ばれている。

 この事件は、その後、面倒な外交問題に発展するだけでなく、薩英戦争まで引き起こすのだが、興味深いのは、当時、日本にいたいわゆる知日家の外国人たちが、薩摩藩ではなく、この4人のイギリス人の態度に不快感を表わしていることである。たとえば同日、アメリカ人商人のヴァン・リードも、この殺傷事件の起こる前に行列に遭遇していたが、彼はすぐさま下馬し、馬を道端に寄せ、脱帽して行列の通り過ぎるのを待った。つまり、4人の被った災難は自業自得であるというのが、多くの知日家たちの反応だったようだ。

 そもそも、殺されたリチャードソンという男は、自分の雇っていた苦力に理由もなくひどい暴行を犯したかどで、重い罰金刑を科されたという前科もある、上海でも評判のよくない人物だった。また、イギリス公使館付きの医官だったウィリスは次のように書いている。「取るに足らぬ外国人の官吏が、各省の次官に相当する日本の高官を罵ったりします。また、イギリス人は威張り散らして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にも決して敬意を払いません」。誇り高き薩摩藩士としては、そのような侮辱は日頃から腹に据えかねていたのかもしれない。

 蛇足ながら、この事件は、現在アフガニスタンで起こっている、アメリカ兵によるコーラン焼却事件を思い出させる。要らなくなったコーランを焼却処分したところ、それを見つけたアフガニスタン人がイスラムに対する侮辱であるといきり立ち、大変な騒ぎになっている事件だ。郷に入れば郷に従えということが、優越感に侵されている欧米人にはなかなか理解しづらいらしいが、イスラムの国でコーランを焼けば、どういう結果になるかということがわからなかったのは、大名行列を騎馬で横切ればどうなるかということがわからなかった生麦事件と、基本的には同じような気がする。

 さて、この後、この事件はこじれにこじれ、翌年にイギリスの艦隊が鹿児島湾に現れ、薩英戦争となる。イギリスの大砲は優れていたが人的被害は大きく、また薩摩の方は、人的被害は少なかったものの、砲弾による火災で城下の多くを失った。斉彬の工場群もほぼ焼失してしまった。結局、戦いは勝敗がつかないまま痛み分けのような感じになったが、薩摩側はイギリスの技術に恐れ入り、一方、イギリス側は戦後の交渉を通じて薩摩側を高く評価することになり、この後、薩摩とイギリスは深い関係を築いていくことになるのが興味深い。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら