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日本が「10万人超の大量脱北者」に侵略される日 恐怖のシミュレーション
「北朝鮮崩壊」後に起きることを政府は密かに
試算している 延々と広がる日本海側の住民に
とっては空想話ではないのだ

 独裁者の死による指導者交代。だが、弱冠29歳の三男・金正恩氏の体制が盤石なはずはない。日本政府は、やがて日本に侵入する脱北者の試算を始めていた。インベーダーに対抗する有力な手段はあるのだろうか---。

取材・文|大清水友明(ジャーナリスト)

 韓国統一省は、'11年に韓国に入った北朝鮮からの脱北者数を2737人と発表した。'00年代から急増したその数は、累計で2万3100人に達した。日本でも年明け早々、隠岐島(島根県)周辺で男性3人と一人の遺体を乗せた不審船が見つかった(彼らは機関故障のために漂流したとして脱北を否定)。昨年9月には、脱北を図った9人の男女が保護され、韓国に引き渡されている。

 人権問題に取り組む韓国の団体「被拉脱北人権連帯」は、中国との国境に接した鴨緑を昨年の大晦日に渡って脱出しようとした北朝鮮の3人の住民男性が、国境警備隊に射殺されたとの情報を発表している。

 これら脱北者の盛んな動きは、金正日総書記の死去、そして三男・金正恩氏の後継という北朝鮮国内の政情と無関係ではないだろう。元韓国国防省情報分析官で拓殖大学国際開発研究所客員研究員の高永喆氏は、こんな分析をする。

「2~3年という短期間であれば、大量脱北者の発生という事態は起こりにくい状況だと考えます。銃殺に処したことで、金正恩体制が脱北者に対して厳しい姿勢を取ることが示されましたし、中国は金正恩体制を公式に認め、北朝鮮に食糧援助、石油などの経済支援を行う環境もある。ただし、中長期的に見れば難民の大量発生の可能性は高い。食糧難による混乱と権力争いに端を発する混乱。これら二つの要因が、あるいは重なり、春から秋であれば船で日本海を渡り、大量の脱北者が日本に流れ込む可能性も高いでしょう」

 すでに日本政府は北朝鮮の後継体制が不安定化し、内部崩壊へとつながる場合を想定した研究作業を進めている。作業にあたるのは、内閣の安全保障会議を補佐する事態対処専門委員会で、官房長官を委員長に、内閣危機管理監、内閣情報官、警察庁次長、防衛省の防衛政策局長、自衛隊トップの統合幕僚長などから構成される。この委員会の事務を担当するのが、安全保障・危機管理担当の内閣官房副長官補で、現在、この任にあるのは、防衛省の運用企画局長から転出してきた櫻井修一氏だ。首相官邸の関係者が、現在進められている作業を説明した。

「北朝鮮の有事に備えた政府の対応策は、'06年に北朝鮮が核実験を強行し、米との軍事衝突の危機が叫ばれるようになって以来、本格化しました。金正日の死亡によって、朝鮮人民軍の暴走による南北の軍事衝突など軍事面でのシミュレーションをしているのはもちろんです。しかし、櫻井氏の直属の部下にあたる内閣官房副長官補室をはじめとした首相官邸の作業チームが、最大の検討課題の一つに据えているのが大量の難民流入を想定した対策なのです」

 官邸関係者の説明によると、'07年に事態対処専門委員会が推計したところでは、北朝鮮から日本に上陸してくる脱北者の数は10万~15万人に上るという。これは、日本政府が運用する人工衛星の写真などを基に、北朝鮮の日本海側にある船舶の数を調べ、はじき出した数字だという。難民が上陸すると見られるのは、中国地方や九州を中心とする日本海側だ。離島も少なくなく、海岸線は膨大な長さに及ぶ。警察や海上保安庁などの監視が十分に行きわたらないことも想定されるため、不法上陸を食い止めるのに、自衛隊を何m間隔で沿岸に配置すべきかという検討までなされている。

 また、難民を収容するための施設は、大阪府と茨城県、長崎県にある3ヵ所の入国管理センターだけで、収容能力は計1800人分しかない。想定の難民の数からすると到底足りない。災害時のように公園などに仮設住宅を建てることも検討されているが、学校などの教育施設は児童・生徒たちの教育、安全に支障を来す恐れもあるため使用できない。

 脱北者の流入をシミュレーションする上で、政府の危機管理担当者が注目する、過去に実際に起きた事件がある。今から15年前、鹿児島県の離島に集団密航した中国人が不法に上陸した「下甑島事案」が、それである。本誌記者は離島を訪れ、このモデルケースが、当時、住民にどのようなインパクトを与えたのか、現存する証人から話を聞いた---。

「訓練」名目の出動に批判が

 下甑島は、鹿児島県の西40kmの東シナ海に浮かぶ。中心集落の手打へは、本土から船で3時間、バスに乗り継いで20分ほどかかった。砂浜に沿って石垣に囲まれた家屋が並ぶごく静かな集落だ。

 15年前のことを尋ねて歩くと、住民は、「島であんな大きな事件が起きるなんて思ってもみなかった」と、誰もが鮮明に覚えていた。住民や当時の役場幹部から得た証言を基に当時の状況を再現する。

 身振り手振りで「何か食べさせてくれ」と、4人の男が漁港そばの民宿に現れたのは、'97年2月3日の朝6時半頃のことだった。言葉の通じない男たちに、応対に出た女性は驚き、宿泊客に頼んで警察に通報したが、駐在所から警察官が駆けつけるまでに4人のうち2人が逃亡した。

 同時に、集落の各地から外国人らしき不審者がいるとの連絡が相次いでいた。村内にある駐在所は2ヵ所で、警察官は2名。警察官は本土にある川内警察署に応援を要請するとともに、役場にも協力を要請した。当時の下甑村長・小倉義富さん(72)は、役場の職員を召集するとともに、午前7時50分に行政無線で「外国人が上陸した模様。不審者がいれば通報を」と集落全体に呼び掛けた。

 密航者捜索に、村の消防団や青年団が召集された。捜索活動に加わった57歳の飲食店主はこう振り返った。

「刃物を持っているのではないかという噂もあって、それはおっかなかったよ。釣掛埼灯台のそばの山中を探していると、スーツ姿の男が立っている。俺たちを見るなり逃げ出したんで、無我夢中で取り押さえたけど、武器を持ってなくてよかったと、今になって思うよ」

 密航者は草むらの陰や、牛舎から次々と見つかり、正午頃には、20人に上り、駐在所に収容しきれなくなって公民館に身柄が移された。彼らは、ほぼ広東省や福建省の出身で、業者に400万円を支払い、船に乗ってきたと話していた。

 本土の川内警察署からは、署長以下、応援の警察官25人が船やヘリで下甑島に向かったが、ようやく到着したのが正午前。中国人密航者20人を出入国管理法違反で逮捕し、本土に船で搬送する作業を済ませた頃には午後4時を回っていた。

 ところが、警察が中国人らから聴取した供述内容が問題となった。元役場職員の横川昭正さん(83)は、戦中、戦後、中国で暮らした経験から取り調べの通訳にあたった。横川さんの回想。

「逮捕した密航者のうちリーダー格だった男が『乗ってきた船には30人以上いた』と言うのです。さらに『夜で暗かった上、海が荒れていたので、何人上陸したか正確には分からない。25人はいただろうか』とも言うではありませんか」

 まだ捕まっていない密航者がいるかもしれないと、翌日も捜索が行われ、それには航空自衛隊の隊員が加わった。島に西部航空方面隊に属する下甑島分屯基地のレーダーサイトがあるからだった。

 当時、下甑島の部隊の上級部隊にあたる西部航空警戒管制団の司令だった津曲義光氏(後に航空幕僚長)は、航空自衛隊OBの会報誌「翼」の'10年6月号で当時の経緯をこう説明している。

〈四日朝、春日基地(西部航空警戒管制団の所在基地)の団司令部において運用班長から自衛隊への応援要請があったとの報告を受けた私は、電話で直接群司令(下甑島分屯基地の司令)にその事実を確認し、野外訓練での三十人規模の捜索活動の支援を指示した〉

 さらに、津曲氏は下甑島の基地司令に、自衛隊には職務質問も逮捕する権限もないので、警察官を同行してもらうようにとも指示したのだという。

 2月4日の捜索は、総勢170人あまりの捜索隊が10班に分かれて行われた。自衛隊は30人の隊員が出動し、各班に振り分けられた。密航者が上陸したとみられる島の最南端の釣掛埼付近の捜索を担当し、高さ200mもの絶壁をロープで下りて海岸をくまなく探した隊員もいた。

 しかし、この日、自衛隊が捜索活動に参加したことをメディアが問題として取り上げた。「野外訓練」名目に出動したのに、実際は捜索活動を行ったこと。さらに自衛隊法では、治安維持や災害派遣などで基地外に出動するには都道府県知事の要請が必要と定めているが、当時は知事の要請がなかったことも問題視された。さらに川内警察署は自衛隊出動の経緯について「自衛隊側から捜索に協力したいと申し入れがあった」と説明し、両者の説明が食い違うことも批判された。

 報道を受けて2月6日には、防衛庁(当時)の村田直昭事務次官が、「所要の手続きを経て、警察機関への協力活動として実施すべきところ、野外訓練の一環として実施した点については適切さに欠ける面があった」との談話を発表し、メディアの指摘を追認してしまった。

 結局、その後の警察の捜索でも密航者は発見されず、「25人が上陸した」というのは、リーダー格の男の勘違いだったのだろうということで片づけられた。以上が「下甑島事案」と呼ばれる15年前の事件の顚末である。

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