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北朝鮮はまもなく崩壊する
金王朝「滅亡」の全情報
時間の問題

〔PHOTO〕gettyimages

 こんな男がトップだと言われて、誰がついていくだろう。顔と姿を見れば、まだ子供じゃないか。老獪な軍幹部たちとハイエナのような諸外国。ぼんやりした三代目はあっという間にその餌食となる。

ある重要な情報

 12月28日、平壌。この日、金正日総書記を偲ぶ葬儀が厳かに営まれた。参列者名簿のトップに記された金正恩大将は、この葬儀を通じて自らが北朝鮮を後継していくことを内外に示した。

 葬儀を行うに当たって、北朝鮮側は「外国からの弔問代表団は一切受け入れない」と表明。国家元首の葬儀にはつきものの、外国の要人たちの招聘は行われなかった。

「後継体制をアピールする絶好の場に、海外から誰も要人を招聘しなかったのは意外だった。この葬儀が金正恩の〝外交デビュー〟となるはずだったが、北朝鮮はその機会を閉ざしてしまったのです」(韓国の外交関係者)

 少年時代をスイスで過ごし、北朝鮮に戻ってからは一部の軍人や党幹部としか交流しなかった正恩は、ほとんど外交パイプをもっていない。金総書記の死後、北朝鮮には各国から参列の申し出があり、外交パイプづくりの場としても活用できたはずなのだが、北朝鮮はこれらの要請をすべて断ったのである。

 しかし、ひときわ熱心に葬儀への参列を画策していた外国の政府があった。日本政府である。

 言うまでもなく、日本は北朝鮮と国交を持っていない。にもかかわらず野田佳彦総理大臣は、なんとかこの葬儀に日本から要人を出席させられないか、あらゆるルートからその方法を模索したという。官邸関係者が明かす。

「実は野田佳彦総理は、小泉純一郎元総理か安倍晋三元総理を首相特使として平壌の葬儀に派遣する案を検討していたのです。内々に両元総理に打診したところ、2人からは『条件が整えば行ってもいい』という前向きな返答をもらいました。それで北朝鮮側にこれを持ちかけたのですが、『外国の要人は呼ばない』と強く断られ、断念せざるを得なかったのです」

 一体なぜ野田総理は、金総書記の葬儀に日本から要人を送り込むことにこだわったのか。その答えは彼が総理に就任して以来、常に胸元に付けている青いリボンに隠されていた。野田総理は海外の要人と会うたびに、このブルーリボンについてこう説明してきたという。

「これは拉致問題の象徴です。私は首相在任期間中に、なんとしてでもこの拉致問題を解決したいと考えているのです」

 9月下旬にオバマ大統領や李明博大統領と首脳会談を行った際には、他の話題を押しのけてまで、拉致問題解決にかける決意を語っていたという。さらに12月16日には、わざわざ在京の大使ら111人を外務省の公館に集めてランチの会を開き、横田めぐみさんと両親の姿を描いた映画の上映を行った。

「北朝鮮からは納得のいく説明は一切ない。拉致問題の解決に向けて、皆さんの協力をお願いしたい」

 野田総理はこの場で異例の要請を行い、拉致問題の進展に強い決意をもって臨んでいることを示したのだった。

 勇ましい姿勢を見せてはいたものの、小泉純一郎元総理が「拉致問題は金正日総書記の死後でなければ解決できない」と口にし、両国の関係改善を断念した経緯があるように、民主党政権下でも拉致問題が進展する見込みはなかった。しかし、日本人拉致を指示した金総書記が死んだことで、事態は急展開を迎える。

「金正恩となら拉致問題を話しあえる。葬儀に要人を派遣して、交渉の窓口を開かなければならない」

 いまこそ拉致問題を進展させるチャンスと見た野田総理は、金総書記死亡の報せが入った直後に、官邸スタッフにこう指示を出したという---。

 残念ながら北朝鮮が固辞したために、弔問外交は叶わなかった。だが野田総理は引き続き、拉致問題を進展させる糸口を探した。野田総理にとって幸運だったのは、元々は昨年12月12日に予定されていた中国訪問が、中国側の都合で延期されていたことだった。

「延期されたことによって、日中首脳は金総書記の死亡後に会談を行うことになりました。これによって野田総理は胡錦濤・温家宝両首脳と直接会って拉致問題について話す機会を得たのです。当初は経済問題について話し合う予定だったのですが、メインテーマは北朝鮮の安定化と拉致問題となり、野田総理は拉致問題解決への協力を重ねて要請しました。さらに帰国直後の27日には、野田政権として初の『拉致対策本部会合』を招集しました。これは拉致被害者を救出するための7つの分科会を新たに設置するなど、かなり本格的なものです」(前出・官邸関係者)

 野田総理がこれほど積極的に動いたのには理由があった。就任直後、野田総理のもとにある重要な情報が届けられたからだ。

 話は2010年の年末にさかのぼる。当時外相を務めていた前原誠司氏のところに、分厚い朝鮮語の資料が届けられた。それは、平壌市のある地区の最新版の戸籍台帳だった。

 付箋の貼られたページを前原氏が開いてみると、「1964年10月5日生まれ」と書かれた女性の戸籍があった。この戸籍にはなぜか13歳までの〝消息〟が書かれていなかった。2010年現在、女性が平壌に在住していることを示唆するこの戸籍をみて、前原氏はこれが1977年に拉致された横田めぐみさんのものではないかと推測したのだった。

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