田原総一朗×升永英俊 後編「東京は一人0.23票、北海道は0.21票しかない。これで得をしているのは政治家だけです」
辣腕弁護士はなぜ「一人一票」実現に挑むのか
 

田原 升永さんにお聞きしたいのですが、なぜ升永さんが一票の格差問題に取り組むようになったのか。超大物の、名を馳せた弁護士である升永さんとは、ちょっと結びつかないような気がするんですが。

升永 なぜ私がこの問題に取り組むのか。それは、まさに今日、田原さんに申し上げたかったことなんです。私はいま69歳なんです。69歳の、あと余命がわずかの人間が、なぜ急遽こんなことをやりだしたのか。

 実は私が「世の中で一番の不正義はこの問題だ」と思ったのは49年前なんです。

田原 そんなに前ですか?

升永 ええ。こんな不正義があっていいのかと怒りに震えたのが、私が20歳のときでした。大学に入って憲法の授業を受けていた。そのとき、衆議院議員が4・8倍でした。

田原 選挙区での格差が?

升永 衆議院議員の一票の格差が4・8倍の時代です。だから一番少ない選挙区では0・2票ということですよね。「こんなバカなことが」と身体が震えました。

級長選挙で落選しても納得した理由

田原 なぜそのことを知ったのですか。

升永 憲法の授業で知ったのです。私は法学部ですから、憲法の授業でそのことを知り、かつ最高裁がそれを合憲という判断をしていることに私は絶望しましてね。

 それで、そのまま司法試験を受けさせられた。さすがに「4倍は悪い」とは書いたのですが、「3倍だったら合憲」というのがそのときの通説で・・・。私の良心に反して---私は一人一票でないとイカンと思いましたが、そんなことでは司法試験に落ちますから。

田原 そうか。答案にそう書いたら落ちる?

升永 ええ、落ちるんです(笑)。だからしょうがなくて「4・8倍はひどい。3倍未満にしないとイカンと思う」と答えて、やっとこさっとこ合格したわけです。

 それで10年ほど前、私が中村裁判(青色発光ダイオードの開発者・中村修二氏の代理人を務めた裁判)をやっていたときにこんなことがあったんです。まだ地裁での判決前、最もその事件に集中している時期に、私が小学校二年生だったときの担任の先生が一枚の写真を送ってきてくれたんです。遠足の写真でした。

 私は昭和17年生まれですから、昭和25年の写真ですね。学校から2キロくらいのところにある神奈川県平塚の相模川の河原に歩いていった。遠足ですから写真を撮ったんですね。

 その写真を見ると、生徒が3~4列に並んでいて、最前列には12~13人いる。そのうちの3~4人が---女の子も、男の子も---裸足なんですよ。

田原 裸足というのは、本当の裸足? 行きも帰りも?

升永 ええ、行き帰りもそうです。小学校二年生のわが娘、息子が年一回のイベントに行くのに、どんな親だって「裸足で行かせたい」と思う者はいないですよ。だけど、そうせざるを得なかったのが昭和25年の平塚に住んでいる親でした。私もその一人だった。私が裸足だったかどうか、一番前列に並んでいなかったので、分かりません。たぶん裸足ではなかったと思います。

 だけどそのときに、その写真に引きずられて急にあることを思い出したんです。

 私は小学校の一年生の時に、先生から「級長になりなさい」と言われて級長になったんです。そのときは大分県の中津というところに住んでいました。

田原 福沢諭吉の出た中津ですか。

升永 そうです。一年生のときに親父が転勤になったので、二年生になるとき平塚に来ました。

 その二年生になるときに担任の先生が、「あなたたちはもう二年生になったのだから、先生が級長を選ぶのはもう止めます。みなさん、選挙で選びましょう」と言って、選挙が行われることになったんです。

 私は、とにかく小学校二年生ですから、級長になりたかったんです(笑)。

 で選挙になって、黒板に名前が読み上げられていったのですが、私はあえなく落選。当時の私は通ると思っていたのですが(笑)。悔しかったけれど、でも納得したんです。

田原 どうして?

升永 それは「○○町の子どもだから0・5票」ということがなかったから。「××町の子どもだから0・8票」ということもなかった。みんな一票で、男の子も女の子も、勉強の出来る子も出来ない子も、みんな一票を投じて、その中で僕は票を取れなかった。それは納得しましたよ、悔しいけれど。

 その記憶が、昭和38年、大学で憲法の授業を受けたときの一票の格差問題と重なって、一瞬火花が散ったんです。

田原 どういう火花が?

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