2011.11.28(Mon) 本郷 明美

「日本人は何を食べてきたか」第3回 与謝野晶子 
新妻晶子、一汁一菜に泣く

筆者プロフィール&コラム概要

筆者 本郷明美(ライター)

 ところは大阪、ときは明治、ある男が家族に言った。

「ここは、ええ魚が手に入らなくてあかん。魚がうまいとこにひっこそっ!」

 で、家族揃って、和菓子屋を営んでいた大阪市内から海沿いの堺へと本当に引っ越してしまった。セリフは推定でありますが、これホントの話。新鮮な魚のために引っ越しとは、かなりの食道楽である。この男の子孫が、のちの人気歌人、与謝野晶子。こんな家庭に育った晶子ももちろん、食べることが大好き。ところが世の中うまくいかない。大恋愛の末結ばれた与謝野鉄幹の実家は寺であり、「一汁一菜」が基本の質素な食生活を良しとする家庭だった。

 結婚し、愛する夫のために腕をふるう新妻晶子。お膳にはおかず2品と魚の煮つけ、晶子にとってはごく普通の夕餉だった。

「おいしいって言ってくれるかしら」、晶子は頬を染めたことでしょう。ところが!

「こんなぜいたくは許せません」 ひ、ひどい、鉄幹。晶子はのちに「そのときは悲しくて、情けなくて、里に逃げ帰ろうかと思ったほどです」(『どっきり花嫁の記』与謝野道子著)と語っている。

 そんな鉄幹との暮らしのなかで、晶子の「食」の楽しみは何だったのか。晶子は時折子どもたちのために、それは丁寧に和菓子を作ったという。そう、晶子は和菓子屋の娘! いわば和菓子はソウルフードだった。月見には、お団子を作る。ご飯をつぶして芋と混ぜ、とんがり帽子のようなかたちにしてまわりに黄粉をまぶす。こうして里芋のようなかたちにするのが、晶子の流儀だった。

 その他、おはぎ、おしるこも作る。いわゆる「つぶあん」ではなく、手間をかけ木綿袋で濾し、カスをきれいにとって煮詰める「こしあん」にしないと気が済まない。忙しい毎日のなかで、団子をまるめ、あんこを煮る。母としての穏やかな素顔だった。

エネルギーの源は!? ハモ・スッポン・ウナギ

 ところで、生来が食道楽の晶子、ずっとおとなしく(?)していられるわけがない。子どもの頃培われた味覚は歳とともに蘇る。

 講演などで、全国各地をひんぱんに旅した晶子と鉄幹夫妻。旅先では、各地の名産、珍味を楽しんだ。家庭でもしだいに一汁一菜の習慣はくずれ、豊富なおかずで食事を楽しむようになったという。それは、鉄幹ではなく晶子が家計を支えるようになった過程と重なるのかもしれない。

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