東電と検察の「独占」をチェックしてこなかったマスコミの「責任」
いつまで国民を愚民視しているのか

 福島原発事故を起こした東京電力に問われているのは、地域独占、発送電一体の権益を、政官界工作を通じて保持、一民間企業でありながら原発を含む電力行政を担ってきたという自負が生む傲慢さだろう。

 一方、大震災の陰に隠れた感はあるが、同時期、「検察の在り方検討会議」を通じて検察に問われていたのは、政官界のチェック役として、強引な捜査も許されると勘違いした検事たちの傲慢さだった。

 東電と検察---。

 役割も依って立つ基盤も違うが、共通するのは、独占と監視役不在がもたらす横暴である。

チェック機能を放棄したマスコミの責任

 東電には、原子力安全委員会、原子力安全・保安院という二重三重のチェック機能があるものの、原子力は推進すべきものという「原子力村」の共通認識で一体化、東電の資力に、経産省資源エネルギー庁とその傘下のチェック組織も世話になっているという現実の前では、用をなさなかった。

 検察は、法務大臣の指揮権発動によって行動を制約されるが、国民監視のなか法務相が政権を擁護、政治家や官僚を保護するために指揮権を発動することはなく、終戦直後の混乱期の造船疑獄を除いて、「抜かずの宝刀」となっている。

 監視役不在のなかで、東電は原発の安全神話を、検察は有罪率99.9%の無謬性をアピールした。

 だが、当然のことながら組織も人間も間違いを犯し、それを隠ぺいする権力があれば腐敗する。福島原発事故の目を覆うばかりの惨状と、大阪地検事件の証拠改ざん、調書ねつ造の破廉恥は同根である。

 本来、権力の腐敗を暴き、独善に警鐘を鳴らすのはマスコミの役割である。だが、日本のマスコミは記者クラブ制度という"もたれあい"のなかで、官庁と意識を一体化させ、監視という立場を放棄してきた。

 東電は、電力という企業と人間にとって最も重要なインフラを握る権力であり、応対は役所そのもの。にもかかわらず広告出稿は民間企業の側面をいかんなく発揮、マスコミにとっては大スポンサーで、「反原発」の立場に立つことはできなかった。

 検察は、マスコミにとって最も重要な情報源で、各社は社会部の精鋭を投入、特捜案件、国税案件、証券取引等監視委員会案件などを、細大漏らさずフォローしている。検察は、一体となって正義を体現する相手であり、批判など思いもよらない。

 そういう意味で、福島原発事故と大阪地検事件の責任の一端はマスコミにもある。だが、それはおくびにも出さない。

 自浄能力の欠如については脇に置こう。

 今、問題とすべきは、マスコミに問われている役割の変化と、それに気づくことなく同じ"立ち位置"の報道を続けている意識の低さについてである。

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