あらためて問う。大学入試を改革せよ
カンニングが通用するような入試が悪い

 京都大や同志社大などで起きたインターネットの掲示板を悪用した「カンニング事件」では、偽計業務妨害の疑いで警察に逮捕された仙台市の予備校生は3月下旬、保護観察相当の意見を付けられて京都家裁に送致された。今後、一定の観察期間を経て少年審判にかけられると見られる。

 2月下旬に起こったこの問題は、大震災によって忘れ去られようとしているが、実は今の大学の運営やその在り方を問うような大きな課題を内包している。現在の大学では教育機能は低下し、運営においては無責任体質の極みとなっていることを象徴している。一言でいえば、「大学教授は馬鹿だらけ」なのである。

 何年か前に『最高学府はバカだらけ』(光文社新書)という本が売れ、その内容は難しい漢字が書けないような大学生が氾濫しているといったものだったが、実は学生以上に今の大学教授は馬鹿が多いのである。

 問題発覚後、京都大は「公正な入試が妨害された」などとして京都府警に被害届を提出した。警察に届けたことに対して世間では賛否両論があった。大学によっても対応は異なり、同志社大は被害届を出さなかった。

 被害届提出に反対の主な意見は、入試という教育現場の一端で起きた問題の解決を警察や司直の手に委ねることは、「大学の自治」が損なわれることにつながるなどとするものである。たかがカンニングなので刑事事件にする必要はなく、サイトの投稿版と類似の答えの答案をチェックして、同様の回答が書かれている答案に点を与えなければいいという考えだ。

 一方、大学教授の中にも被害届は当然といった意見もある。社会に重大な影響を及ぼす入試という業務の妨害の犯人を調べるのは当然といった理由からだ。捜査した結果、容疑者が少年の予備校生だと後で分かったことであり、大学側がカンニングをした少年を警察に突き出したのではないといった論も見受けられる。

 筆者は被害届提出には反対である。カンニング事件を警察に頼んで解決しようと考える「先生」は本当に教育者なのだろうかと感じるからだ。本当に情けない。失礼だが、馬鹿だ。また、想定できないことが発生しているのに、それを強引に現行法にしか当てはめて考えられないことにも知性の劣化を感じる。

 入試という教育の入り口の現場で起きた問題の本質的な解決を避け、法律論で解決しようとしているように見える。人を扱う教育には法律で裁けないような奥の深い問題が関係しているのに、法律論で解決するしか能のない人には知性というものが感じられない。これは、人が脅されたり、殺されたり、多くの人が実害を被ったりした刑事事件ではない。

 被害届を出すことについては、普段の大学人の言動から見て矛盾することも多い。多くの大学教授は日頃から「学問の自由」や「大学の自治」を声高に謳い、外部権力からの干渉を嫌う。本コラムでも触れたが、たとえば、関西の中堅私学である大阪産業大学では教え子へセクハラ容疑のある休講だらけの教授を、経営者側の理事会が懲戒処分にしようとしたら、経営者が教授人事に関与することは学問の自由に反するなどとして、教授会や労組が反発して処分を撤回させたこともあった。

 公立の大阪市立大学でも、助教授が社会人女子大学院生に肉体関係と引き換えに学位の取得を迫ったことが発覚し、一般企業であれば懲戒免職のケースだったが、退職金の出る依願退職の形にして穏便に処分した。「学問の自由」を盾に社会の常識すら通用しない面があるのが大学というところなのだ。

 また、経営が悪化した私学では学生の獲得数を増やすために、カリキュラム変更や教員採用のシステムの変更などを理事会側が提案しても教育現場が徹底して抵抗をするケースも多く、時には労使問題に発展することすらある。それほど、大学人は「学問の自由」にこだわっているのだ。

 それならば、入試でのカンニングという学問の現場の「入り口」で起きた問題は、自由や自治を守るためにも、教授ら教育者が自ら対応策を考えて教育的指導で解決すべきではないか。警察の手に解決を委ねることは、学問の自由や自治といった裁量を否定することになるのではないか。

カンニングは杜撰な監督体制の結果

 再発防止のためにも監督者を増やすなどこまめな対策で乗り切られるはずである。3月7日付産経新聞朝刊によると、カンニングは予備校生一人でやった行為であり、中継役や小型カメラなどを用いておらず、ペーパーを持ち込む古典的カンニング手法と変わらないと報じている。そして、その予備校生は「監督者が自分の横を通ることはなかった」と供述しているという。古典的な手法の不正を防げなかったのでは、監督者が寝ていたのではないかと疑われても仕方がない杜撰な管理体制だったのだ。

 その運営ミスを棚に上げて、カンニングが社会問題として大きく取り上げられれば、日頃唱える「学問の自由」はどこ吹く風で、平気で警察に解決を委ねる。虫がいいとしかいいようがない。繰り返すが、教育現場には法律で裁けない複雑な問題が多く存在しているのに、すべてを現行法にあてはめて考えること自体、学問の府でありながら知性が欠如していると言わざるを得ない。

 同志社大は被害届を出さず、京都大は出したことにも注目したい。国立大学は独立法人化され、形だけ民間企業的な経営スタイルが導入されているが、この独法化によって大学の無責任体質に拍車がかかっているようにも見える。被害届を出した京大の行為は、入試の公平性を担保できなかったことに学外からクレームがついた時の責任逃れ以外の何物でもないと感じている。教育者としてどう解決するかが忘れ去られているのだ。

 ある国立大学教授も「京大の取った対応は、学長や副学長らが責任を逃れるためだけにやった行為としか見えない。大相撲の八百長がなぜ起こるのか、それは本当に悪なのかといった本質的な議論をせずに、疑惑のある関係者を処分して済ますのと同じ発想。木端役人の生き残り手法と同じだ」と批判する。

 今、一部の国立大学では「責任回避病」が蔓延していると聞く。ある旧帝大では出張時には出張先にあるコンビニで買い物をしてレシートを経費処理の際に添付しなければならない。このため、買い物する用事がなくてもコンビニで何か買わなければならないという。カラ出張防止のためだ。

「出張したことが確認できる資料を添付させてチェックしたので大学の事務処理に責任はない」(その大学の関係者)と釈明できるようにやっている対応だそうだ。コンビニのレシートなんて店内に捨てられており、知人に頼んでそれを拾って送ってもらうことだってできるのに、何とも馬鹿げた話だ。なぜカラ出張が起こるのかといった本質的な議論や抜本的な対策を実施することを避けているのだ。

 さらに深刻な話もある。国立大学に付属する一部の大学病院で難病の治療や手術を回避する傾向が強まっていることだ。大学病院は市井の病院では対応しきれない病気に対して先端的かつ高度な医療を実施する機能を持っているはずだ。しかし、同時に治療失敗などのリスクも伴う。大学病院では医療過誤として責任を問われることを恐れて高度医療には絶対に取り組まないようにしているという。

 これまで国立大学の大学病院で患者側と訴訟などの問題が発生すれば、監督官庁である文部科学省が最終的に対応していたが、国立大学が法人格を持ったことで訴訟の対象になったためだ。これでは新しい手術テクニックなど治療方法の開拓ができないだろう。法人化に起因すると見られる「責任回避病」が大学病院の機能を低下させている、と言っても過言ではない。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら