日本の底力

余震の中で新聞を作る Vol.1

河北新報編集委員が記録する「被災地のジャーナリズム」

2011年03月26日(土)
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写真・文/寺島英弥 (河北新報編集委員)

第1回 3月14日

 外出から帰り、職場のパソコンを開いて仕事を再開した刹那でした。11日午後2時46分ごろ。

 ゆらゆらという横揺れがあって、それが次第に振幅を大きく、激しくし、周囲の同僚たちも机にしがみつくほどに。「もうじき止むさ」という気持ちを翻弄するような揺れが、本やファイルをすべて床に落とし、終息まで2分にも3分にも思えました。

「恐ろしさからか周囲には声もなく、これで死ぬのか、と思った」と、隣席の友人は翌日の朝刊につづりました。やはり被害の大きかった1978年の宮城沖地震を経験した同僚は多いのですが、やはり同様の感想を聞きました。

 あらゆる種類や書籍が散乱した5階フロアから、編集局の中心がある6階に駆け上がると、様相は一層ひどく、天井のかけらが落ち、蛍光灯のカバーがぶらさがり、本棚は倒れ、いったい外界はどうなっているのか、想像のつかない不安に襲われました。

 一時避難した駐車場から社屋をながめると、外壁の一部がはがれていました。

 未曾有の地震であったことを実感させたたものは、ほどなくしてテレビの画面にとらえられた大津波の映像でした。

 沖合に「地震の巣」を抱える東北の太平洋岸、とりわけリアス式の狭い湾が津波の力を増幅させやすい三陸は、有史以来、数々の大津波に襲われました。

 19世紀末、岩手、宮城、青森で約2万2000人の命を奪った明治三陸大津波。その後、再び岩手から宮城にかけて約3000人が犠牲になった1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波。60年(同35年)にはチリ地震津波があり、大船渡市で53人、宮城県志津川町で37人、陸前高田市で8人が犠牲になりました。

 それからじつに半世紀ぶりの大津波の再来でした。しかも、その被害はもはや三陸にとどまらず、八戸から小名浜(いわき)まで、南北全域にわたる浜という浜、街という街がのみこまれたのです。気仙沼は津波の後に大火にも包まれました。しかし、いったい何が起きたのか、の全貌---M9.0という数字では表しきれないほどの---は、数日たった今ですら分かりません。

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