平松邦夫×内田樹「漱石が『坊ちゃん』で書いた教師像に学ぶ」

「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第2回
写真向かって左から平松邦夫市長、内田樹教授、本誌編集長

vol.1はこちらをご覧ください。

「効果的な単一の教育方法」なんて存在しない。

平松: まさしく内田先生がおっしゃった、人をどう世の中に送り出すか。それを初等教育の段階から行うのが公教育の役割だと思います。それをもっと数値的にレベルを上げたいとか、特化したいとかいうのであれば、私学という選択肢もあるわけですね。親の意向でそこに入れたい、とか。

 ただ、やっぱり市民として一人前になる入口は公の義務教育でしっかり支えようという国の制度があるわけですから、それを大いに社会全体で利用してほしい。

 そうは言いながら、やっぱり(基準が)数字になってしまって、都道府県の学力ランキングなどで(大阪は)後ろから数えて3番目だとか、そんな結果になると、なんだか怒られてるような気がしてくる。でも僕が言いたいのは、まずは内容をきちっと分析しようよ、と。内容を分析して、やっぱり言語能力とかイマジネーションを育てる部分を大事にしたい。

 そういった能力をしっかり伝えられるような教育。この点を教える側が課題としてしっかりつかんでくれたら、そこから絶対に子どもたちの展開力が出てくるはずだと、教育委員会には言ってるんですけどね。ただし、教育内容について、あまり市長が細かく干渉すると教育委員会の独立に反することにもなりかねませんから、そこまで込み入った指示はしませんけれど。

瀬尾: やはりできるだけ教育現場に権限を多く与えることが、ひとつの解決策ということになるのではないですか。責任はもともと相当求められてるでしょうから、責任と権限、両方持たせるようにする、と。

平松: はい。学校であれば校長と教頭が責任を取ってくれる。その上の責任は教育委員会にある。で、権限は現場、本当に一生懸命やってる先生たちに、ある程度の幅を持った形で動いてもらわないと。これは以前、やはり内田先生とこの部屋で対談した時に言われた話で、あ、これはいいことを聞いたと思って、私はインプットしたんです。そうでしたよね、先生。

内田: 教育の目的を個別的な知識とか情報の収集ではなく、人間的成熟であると考えると、教育方法についての答えって、わりと簡単に出るんです。それは、子どもを成長させる単一の方法は存在しない、ということです。子どもは葛藤のうちにしか成熟しない。周りの大人たちがいろんなことを言う。

 相互に矛盾したさまざまなことを言う。学校なら、先生たちがそれぞれ違う教育理念を持ち、違う教育方法を採用していて、「教育かくあるべき」ということについて合意が形成されていない、でも、とにかく子どもたちを教育せねばならんということについては最低限の合意ができている。そういう状況がいちばんいい教育環境なんですよ、子どもにとっては。

 多くの人が勘違いしてるのは、効果的な単一の教育方法が存在していると思い込んでいることです。それを探そうとしている。理想的な単一の教育技術やシステムがあって、規格化された教育力なるものがあって、それを先生たちがみんな習得して、全員そろってマニュアル通りに教育活動を実践すれば、まるで缶詰をつくるみたいにどんどん「できる子ども」が量産されるという教育観がもっとも貧しい。生産的な教育環境というのは、まさにその反対なんですよ。