政局
「仙石官房長官」更迭を菅首相に力説した「藤井副官房長官」
枝野官房長官誕生でポスト菅レースがスタート
〔PHOTO〕gettyimages

 菅直人改造内閣(党役員人事)の陣容が11月14日朝までに内定した。今回の改造人事は菅内閣の大黒柱だった仙谷由人官房長官の去就とたちあがれ日本で孤立した与謝野馨元財務相の入閣の有無が最大の焦点だった。

 昨年の臨時国会で参院の問責決議を受けた仙谷氏だが、昨年末から年始にかけては「問責決議には法的拘束力はない」として、官房長官続投に強い意欲を燃やしていた。

 その仙谷氏に引導を渡したのは菅首相。首相は年頭会見で内閣改造を示唆した翌5日、東京都内のホテルで約1時間、岡田克也民主党幹事長を交え、仙谷氏と会食。この席上、首相は仙谷氏に「官房長官を交代していただけませんか。しかるべきポストを考えますから」と言い切った。

 首相は昨年12月23日、党長老の藤井裕久元財務相と会談。その際、藤井氏は首相に「仙谷さんを代えないとダメだ。国会の大臣席にも座らなくてすむ官房副長官に降格させ、野党との裏折衝などに当たらせた方がいい。それが仙谷氏を守ることにもなる」と力説、官房長官交代を強く促していた。

 藤井氏の念頭には1968年の佐藤栄作内閣の改造で、保利茂官房長官の就任によって、官房長官から副長官への降格に甘んじた故木村俊夫元外相の故事があった。

 首相は藤井氏の進言を半分取り入れ、半分退けた。首相は仙谷氏に党代表代行への転進を求めた。百戦錬磨の仙谷氏だけに頭の切り替えは早く、党内での主導権を握ろうとはかった。

 そして仙谷氏は、自分と気脈を通じる枝野幸男幹事長代理を後任の官房長官につけるべく動く。政務秘書官を除き、仙谷体制下の秘書官(7人は省庁から派遣)は全員枝野体制でも残留する約束を枝野氏と取り付けたのだ。

 そうした中、『朝日新聞』は1月12日の朝刊で「仙谷長官交代へ」とスクープを飛ばしたが、同時に「後任岡田氏ら浮上」と報じてしまった。『日経新聞』などは早々と「枝野官房長官」と打っていたが、『朝日』の「岡田氏ら浮上」は明らかにミスリードだったのである。

 「岡田官房長官」には、笹森清・連合元会長(内閣特別顧問)ら首相に近い人々も強く反対した。首相周辺は「小沢(一郎元民主党代表)さんの政治とカネの問題が一番胸つき八丁に差し掛かっている時に、官邸に逃げ込んでどうするんだ。岡田官房長官は小沢問題を投げ出したとしか受け取られない」と指摘した。

 ただ仙谷氏の後任ポストを巡る迷走は組閣前日の13日まで続く。「代表代行兼国対委員長」案によってである。この案は13日付の『読売新聞』と『毎日新聞』が1面トップで報じたが、この案は首相の意向でもあったという。国対委員長には渡部恒三民主党最高顧問が取り沙汰されていたが、何しろ78歳という高齢。

 首相は仙谷氏という毒をもって野党という毒を制すとの考えに傾いたようだ。しかし、『読売』、『毎日』両紙が報じた当日、仙谷氏は首相に対し、「参院で問責を受けた私が(衆院中心とは言え)国会対策の責任者になることはできない」と固辞。結局国対委員長は安住淳防衛副大臣に回り、決着した。

与謝野氏と平沼氏の確執

 一方、与謝野氏は昨年暮れ、たちあがれ日本の連立政権入りが破談になった後、無所属の鳩山邦夫元法相と会談。「たちあがれの仲間と議論してももはや学ぶことはない」と離党をほのめかしていた。

 与謝野氏周辺も「連立参加を容認していたのに平沼(赳夫代表)は前言を翻した。もはやあんなうそつきとは一緒にやれない」と断言。与謝野氏の離党、菅政権への参画は既定路線だった。

 結局、改造は新任が枝野官房長官、与謝野経済財政担当相、江田五月法相の3人、横滑りは海江田万里経済財政担当相の経済産業相、大畠章宏経済産業相の国土交通相と2人。官房副長官には「仙谷副長官」を進言した藤井氏が就任。

 78歳、蔵相、財務相、自由、民主の両党幹事長を歴任した大ベテランが32歳年下の枝野氏を支えることになる。枝野氏は「与党幹事長---幹事長代理---官房長官」と、自民党の安倍晋三元首相が首相就任前に歩んだコースを歩む。岡田氏、枝野氏、前原誠司外相、野田佳彦財務相、ポスト菅に向けた新たな権力レースの幕が切って落とされた。

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