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いすゞ、帰ってこいよ!
空前の業績アップで待望論勃発!
ベレットR6スパイダー/浅岡氏が開発したグループ6カー。自ら参戦し、富士GCで活躍

 多くのファンを悲しませた乗用車撤退から8年。今年いすゞが好調だ。9月中間期の売り上げが、前年同期の277億円の赤字から291億円の黒字に転換し、売り上げ高は前年同期比63.7%増。海外でも絶好調で、中国では前年同期比なんと96.5%増。ほぼ倍増! 今いすゞにがぜん注目が集まっている。

 となるとファンならば当然考えるのが「乗用車復活はないの?」ということ。そこで、本企画はいすゞの乗用車復活を切に願って、お送りする「いすゞカムバック! 祈願特集」だ。まずは元いすゞワークスドライバーであり、元社員の浅岡重輝氏に、在籍当時、いすゞが輝いていた頃の話から伺ってみる。

かつては御三家と呼ばれた! 当時を浅岡重輝が振り返る

 私がいすゞに在籍したのは、第1回日本GPに出場した直後の'64年から'73年頃まで。この頃のいすゞという会社はまだまだ古い社風が残っていた。

浅岡重輝68歳、元いすゞワークスドライバー、元いすゞ宣伝部社員

 いすゞは、トヨタや日産とは違い、もともと国策企業としての成り立ちがあり、上層部には公家関連の方も多い会社だった。財力も開発力もあった。これが御三家たるゆえんだった。

 半官半民的で官僚的な上司というと窮屈そうだが、実際はキツい締め付けもなく、やりたいことができる自由さがあったのだ。それでいて人材は優秀、しかもクルマ好きばかり。

 私も例に漏れず、入社してすぐに実験部に配属され好きなことを始めた。ちょうどベレットGTが開発中だった。

 とにかく好き勝手作っていて、2ドアセダンをベースに屋根をぶった切ってピラーを寝かせて、メーターはスミス、スイッチ類はルーカス・・・、なんてやりながら完成したのがその当時、東京モーターショーに出品した車両だった。

 これが好評で、市販化にこぎつけたが、行き当たりばったりで図面もない。ショーに出品したクルマから実測して線図をおこすなんて無茶をやっていた。

 その後は'78年頃から、プロトタイプの開発部署にいて「R6」や「R7」の製作を担当した。勝負よりもむしろ、どう研究に役立つかが重要だった。

 この会社の核はやっぱり技術屋で、とにかくアカデミックだったのが印象的。入社すぐから毎日実験してはレポート、レポート。毎日文章を書いていた。物を書くということを覚えたのはこの体験からだ。おかげで企画書を書くのが上手くなって、さらにやりたいことを実現できるチャンスが増えた。

 好きなこともやれたし、技術もあったけど、危機的状況になってしまったのは利益体質と販売力に問題があったんだと思う。

 ただ、状況が悪くなると面白い人間も自由な社風もかなり少なくなってしまった。いすゞにはもう一度自由な社風を取り戻してほしい。それには会社をだまくらかすような社員が必要だな。まずはそこからだ。

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