松下幸之助 vol.3
水道哲学の原点となった 天理教との出会い

vol.2 「企業経営者に。松下が直面した昭和恐慌」はこちらをご覧ください。

 天理に行ったのは、平成十三年の夏だった。

 文芸批評においては、保田與重郎に傾倒していたので、その生家があった桜井周辺は、何度か訪れ、歩いた事があった。

 天理は、桜井の真北に位置しており、直線距離にすれば、十キロに足りないぐらいの距離なので、行こうと思えば行くことは、造作もなかったのだが、訪ねぬままに過ごしていた。

 一度、物書きを稼業にしてしまうと、何処に行こうが、何をみようが、ある種の「取材」になってしまう。であるから、ボンヤリと、気楽にどこに行くという事は、し難くなってしまう。もちろん、その濃淡というのは、いろいろ多種多様であり、私は同業者のなかでも、ひときわその傾向—何でもネタにしてしまおうという—が強い。

江戸末期に中山みき を教祖として誕生。 写真は奈良県天理市 にある天理教会本部

 つまりセコイという事なのだろう。

 天理に行く事を思いついたのは、松下幸之助の評伝を執筆しはじめてからだった。

 天理教に、あるいは天理教の信者たちの営為に、松下幸之助が強く影響を受けたからである。

 天理での見聞は、松下の理念、いわゆる水道哲学の呼び水となり、そこに命を吹き込んだ、松下にとって本質的な経験であった。

人間は、何のために働くのか

 天理には、PHP研究所の編集者、研究スタッフとともに行った。

 実際のところ、松下の伝記を書く目論見を抱いた時、どの媒体、どの版元に話をするかでは、大分、考えた。

 松下幸之助について、もっとも厚い蓄積をもっているのは、PHPである。

 とはいえ、PHPは、松下幸之助が創始した会社、企業であり、そこに拠って松下を書く事は、記述の独立性、公平性において、著しい疑義を生じる懸念があるのではないか。

 厚顔な私も、少しは考えた。

 しかし、松下幸之助の伝記等は、既に夥しく出ている。

 毀誉褒貶は世の常ではあるけれど、批判よりは肯定的評価の方が多いのは一目瞭然、というのが、その当時の趨勢であった。今でもそうだろう。不況風がふけば、松下翁の著作が伸びるという黄金律は、いまだ健在のようだ。

 だとすれば、私がどう書こうと、提灯持ちの役割すら果たせまい。

 ならば、もっとも潤沢に資料を備えている、PHPの雑誌で、執筆させて貰う方がいいのではないか・・・。

 その判断は、今の時点から見ても、間違っていなかったと思う。PHPが所蔵している資料、とくにごく初期から発行されていた社内報の類を縦横に使う事で、拙著は他の松下本と一線を画せたと思っている。

 天理に話を戻す。

 松下幸之助が、天理を訪れたのは、昭和七年初頭であった。

 取引先のU氏という人物が、熱心な天理教の信者だったのである。

 松下は、折角、時間を割いたのだから、徹底的に見聞してやろう、という意気ごみで臨んだ。

 U氏の案内に従った松下は、たしかに天理の建築の壮大さが、他に例をみないような規模である事を理解した。

 しかも、その建築はすべて信者の奉仕によるものであり、その奉仕の申し込みが多数に上るので、満足に希望をかなえて、奉仕に従事させることが出来ないほどだ、と。

 時期としては、教祖中山みきの没後五十年が近づいており、教祖殿と神殿の新築が進められていたので、その盛況はひときわ甚だしいものであったろう。

 その働きぶりに、松下は驚くとともに、考えた。人は誰もが、金を得るため、生活の資を得るために働く。

 ところが、天理の人々は、只で働いている。只働きなのに、自分の経営する工場の労働より、楽しげに、生き生きと働いている。

 なぜか。

 それは、天理には、理想があるからだ。使命があるからだ。使命のために働くから、生き甲斐があり、楽しい。

 であるとすれば、一企業である松下電器の使命とは何か、聖なる使命があれば松下電器にもまた、天理と同様の、溌剌たる労働が産まれるのではないか。「しからば聖なる経営、真個の経営とはいかなるものか。/それは水道の水だ。加工されたる水道の水は価がある。今日、価あるものはこれを盗めば咎められるのは常識だ。

 しかるに、水道の水は加工された価あるものなるにもかかわらず、乞食が水道の栓を捻って存分にその水を盗み飲んだとしても、水そのものについての咎めはあまり聞かない。これは何故か。それは価あるにもかかわらず、その量があまりに豊富であるからである」(『私の行き 方考え方』)。

 そこから松下は、電気製品を水道水と同様に、安価にふんだんに生産することで、地上から貧困を消滅させる、という「使命」を導いたのだ。

『巴里に死す』などで知られる、昭和の人気作家、芹沢光治良は、父が天理教に入信し、一切の家財を寄贈してしまったため、苦学を強いられた。秀才だったために、一高を経て帝大、高等文官試験合格を果たしたが、その間の苦労はなみなみならぬものがあった。けれども、同時に信仰に生きた父を深く尊敬もしていたのである。

 自伝とも云い得る大長編、『人間の運命』で、自らの父について、他者の口を借りながら、こう述べている。

「いろんな病人が集まったが、お父さんは偉かったですよ。トラホームでしょうな、目脂で目のふさがっている子供が来たところ、その目脂を、お父さんは舌でなめてとってしまったですからね。

 お授けをして、二回舌で目をなめてやると、真赤な目がよくなったから、不思議でした・・・夜おそく、毎夜のように山根村から癩病患者が頬かぶりをして、来てね。居あわせた人は後ずっさりしたが、お父さんはお授けをして、膿を拭いてやったり、お紙をはったりしたものだが、消毒もしなかったですからね。

 その人は喜んで帰って行ったが・・・お父さんは自分を完全になくしていられた。(中略)私は今も覚えていますよ、お父さんがその時に話してくれたことを。祖先の財産の上にあぐらをかいて、立派な門構えで、人を助けるなんて、神様のよろこばれることではないと、今度はっきり教えられました」

以降 vol.4 へ。

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