雑誌
自動車業界の超巨匠対談小林彰太郎 三本和彦
「計160歳対談クルマ人生を熱く語る」

 出会いから57年、互いに認め合う両名が誌面に登場日本の自動車産業草創期に出会ってから今年で57年。81歳の小林彰太郎氏、79歳の三本和彦氏の放談録

 日本に初めて本格的な自動車ジャーナリズムを確立させた、日本を代表する自動車ジャーナリストの小林彰太郎氏。

 そして本誌でもお馴じみの自動車業界の重鎮、三本和彦氏。

 この両巨頭が、弊社から単行本を出版したのを記念し、スペシャル対談を行なうことになった。実に57年のおつきあいというおふたりだが、どんな話が飛び出すか?

ふたりが出会った頃の日本の自動車事情

こばやし しょうたろう 1929年東京生まれ。東京大学卒業後、『暮らしの手帖』に共感し、'54年以降ロードテストを専門誌に寄稿。'62年『CAR GRAPHIC』を創刊

編集部—弊社にお集まりいただきまことにありがとうございます。さっそくですが、おふたりの出会いはどんなものだったのでしょうか?

 小林彰太郎(敬称略、以下小林)—そもそも三本さんと初めて出会ったのはアメリカ大使館の日本語学校でした。昭和29年だったと思います。正式には合衆国国務省外国語教育局語学校というところで、日本語教師のアルバイト学生同士として顔を合わせたのです。
三本さんのほうが私よりも3カ月早かった。三本さんを初めて見た時、痩せていて色が黒く眼光鋭いヤツだなと思いました。

三本和彦(敬称略、以下三本)—自分だって眼光鋭かったじゃないか(笑)。ボスのMrs.エリノア・ジョーダンから「仲良く仕事をしてください」って紹介された時に、ボクは「三本です。よろしくね」ってね。ギュッと力強く握手しましたよ。

小林—これが三本さんとの出会いだったんです。ある時三本さんに「なぜバイトをするんだ?」と聞くと、「俺は報道カメラマンになりたいんだ。スピグラが買いたくてねえ」といっていましたよ。

三本—スピグラ(スピードグラフィック)はね、報道用のカメラ。特別外貨枠で年間30~40台が輸入されていて、新品だと1000ドル強(当時36万円強)だった。

小林—日本語教師のアルバイト先はアメリカ大使館の別館にあったんですが、その隣の丸ビル1階に浅沼というでかいカメラ屋があってね。仕事が終わると三本さんはスピグラ欲しさに入り浸っていましたよ。当時、17万~18万円はしたと思いますよ。

三本—そう、中古で17万~18万円はしたねえ。

小林—当時、一流の大学を出て一部上場企業の大卒初任給が6000円だった頃ですよ。三本は少々、頭がおかしいんじゃないかと思いましたよ。

 そうそう、ボクが大学を出た頃、初任給が抜群によかったのは自動車メーカーに限っていえば東洋工業(現マツダ)でした。当時、東洋工業はオート三輪が成功し、景気がよかったんでしょう。ほかの自動車メーカーの初任給が1万円もいかないのに1万4000円を超えていましたからね。これは後で聞いた話ですが、初任給はいいけれど、すぐにトヨタに抜かれて、ちっとも上がらないって東洋工業の社員が嘆いていましたね。

みつもと かずひこ 1931年東京生まれ。國學院大学卒業後、東京工芸大学写真技術部へ進み卒業。東京新聞社入社後、'69年にフリーランスフォトジャーナリストの道へ

三本—ボクだって、小林さんのこと、少し頭が変な奴だと思っていましたよ。小林さんは「ライオン石鹸の一族で別にお金に困っているわけでもないのに、なんでアルバイトしているんだい?」って聞いたら、「自分でクルマを買うためにこのバイトをすることにしたんだ」っていっていましたね。正気の沙汰じゃないでしょう。

小林—お互い仰天したんだよなあ。当時、中古で一番安いクルマは戦争前のダットサン。酷いクルマですよ。それでも10万円くらいはしました。こんなの乗るんだったら歩いたほうがマシだと思ったなあ。

 ボクが欲しかったクルマは英国製のオースチン・セブン。程度のいいものだと15万~16万円くらいはしていましたね。

三本—そうこうするうちに「先に目的を果たしたほうにメシを奢る」という約束をすることになったんですよ。それから小林さんは自動車屋を渡り歩き、ボクは東京中のカメラ屋を歩き回っていましたね。

 知り合って2年もしないある日、小林さんからクルマが見つかったから見に行こうって誘われてね。場所は日本語学校のすぐそばにある寺山自動車商会。

小林—寺山自動車商会っていうのは、シトロエンの新車ディーラー、日仏自動車社長の寺山さんが、中古車を売るために作った別会社です。

 外にナンバーなしのオースチン・セブンのオンボロが根が生えたように置きっ放しになっていました。セダンなんだけど、戦時中に使っていたらしく、ボディが真っ黒に塗ってあって、バンにして使っていたようでした。

 そんなクルマでしたが、どうも気になってノコノコ入っていったら、生意気そうな若造が出てきてね。会社の重役みたいに態度がデカくて、立派な服装をしていました。当時の中古車販売業はけっこう実入りのいい商売だったんでしょう。上から下までボクを見て、値踏みするわけですよ。いくらですかって聞いたら、10万円って抜かしたんですよ。高いなあと思いましたよ。ボクは5万円で買おうと思っていたんですけどね。

 その営業マンは、この前デフが壊れたオースチン・セブンを9万円で売ったからと、この10万円は格安というんです。嘘に決まっていると思いましたよ。

 結局、その日は買わずに帰りましたが、何回目かに通った時、社長の寺山さんが出てこられたんです。ボクは社長にオースチン・セブンを買いたいっていったら、「ウチのものはいくらといいましたでしょうか?」とおっしゃられたんです。ボクはすかさず10万円といわれましたといったら、寺山社長が「それは高い。いくらならよろしいんでしょうか?」と聞かれて、5万円なら買いますっていったら、「それでけっこうでございます」。それでボクはオースチン・セブンを買うことになりました。

三本—結局賭に負けたので銀座の並木通りにあったレンガ亭でチキンライスを小林に奢ってやったんだよ。その後しばらくしてボクは13万円でシトロエン2CVを買いました。

編集部—おふたりが出会われた昭和29年から30年代前半にかけて、日本で走っていたクルマは輸入車ばかりでしたか?

三本—ヨーロッパ車は少なくて、ほとんどアメリカ車だったね。

小林—今では考えられませんが当時は虎ノ門から赤坂見附にかけて両側全部外車のディーラーだったんです。修理屋、部品屋もたくさんあって、まさにモータウンでしたね。

 ドイツ車は少なかったですよ。今は石投げればベンツやBMWやアウディでしょ。当時、大型車はアメリカ車ばかり、小型車はイギリス車でしたね。

三本—ノックダウン生産はいつ始まったんだっけ?

小林—1953年頃ですね。戦時中、日本の自動車メーカーは飛行機や軍用トラックを生産していたから乗用車の生産技術が遅れたわけです。そこで政府が海外の自動車メーカーと日本の自動車メーカーを結びつけてノックダウン生産が始まったんです。日野自動車がルノー4CV、いすゞがヒルマン・ミンクス、日産がオースチンA40、A50を日本で作り始めましたね。

編集部—その頃、どんな人がクルマを買っていたんですか?

三本—当時はクルマを買うっていうのは何か不思議なことをやっている奴以外はいなかったと思うよ。

小林—よっぽど闇商人みたいなヤツか、本当のお金持ちは土地もなにもかもとられていたからね。'53年頃だったかな。乗用車を輸入する外貨割当が増えた時があって、ありとあらゆるクルマが日本に入ってきましたね。

『小林彰太郎の日本自動車社会史』
著者:小林彰太郎
定価:2,100円(税込)
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三本—VWのカブトムシのタクシーも走ってたな。

小林—2馬力のシトロエンもあった。デカいアメ車はガソリン食うからタクシーじゃなくてハイヤーだったね。我々はアメリカ大使館でアルバイトをしていたでしょ。バイト代は2週間に1回出るんだけど、現金ではなくドルの小切手でもらっていました。当時ドルは使えないから東京駅前のバンク・オブ・アメリカに行って、そこでキャッシュに換えてもらうんです。その時は気が大きくなってさ、東京駅までタクシーに乗っていましたね。輸入車ばかり選んでね。それが楽しみのひとつでした。

三本—リンカーンにも乗ったことがあったねえ。

小林—そう大使館前で手を挙げて停まったクルマがフォードかと思ったらリンカーンの12気筒、ゼファーというクルマでした。俺たちが「スゲエ、リンカーンじゃねえか!」っていったら、凄く喜んでいたねえ。

本—でもワンメーターしか乗らないんだから。それも割り勘でね(笑)

編集部—おふたりがクルマ好きになったのは、いつ頃でしょうか?

 小林—ボクは3歳の時から通るクルマもあまりないのに、青梅街道を1時間でも2時間でも飽きずに佇んで眺めている子供でした。でも当時の男の子はみんなクルマ好きでしたね。

三本—一番先にやったアルバイトはコロンブスという靴クリームを作っている会社のオート三輪の運転手。オート三輪(小型免許)の免許は、当時もっていなかったので大急ぎで取りにいってね。オート三輪でも楽しかったからねえ。本当にクルマ好きになったのはその頃かな。

小林—そうそう三本さんは運転をどこで覚えたの? 彼はボクの運転の先生なんだ。

三本—昔、多摩川の河原に多摩川スピードウェイがあったでしょ。あそこはどういうわけか、管理が甘くてね。いとこのクルマを借りて練習していました。

 そうそう、小林さんはクルマを買ったはいいけど免許証がなかった。

小林—いやいやクルマを運転していなかったんで切れた(失効)のを忘れていたんだ。

三本—ボクは免許はあったけどクルマがない。小林さんに「君、コレしばらく貸しておいてくれるかい?」っていうから、いいよって貸したんですよ。

『言わずに死ねるか!日本車への遺言』
著者:三本和彦
定価:1,470円(税込)
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小林—免許証に写真が貼ってあるでしょ。ボクと彼とは似ても似つかない。彼は眼鏡使用だったので、しようがないからツルだけの眼鏡をかけてね。でもオースチンセブンのライトがボワーッと暗くてね。

 交番の前を通るたびにアクセルを吹かして少しでもボーッと明るくなるようにするくらい暗かったから、よくとっ捕まったね。

 そうそう、夜中にとっ捕まった時、おもしろいことがあったな。お巡りさんに「ちきしょう。おまえのおかげで終電乗り遅れちゃったよ」って言われて、しょうがないから送りましたよ。でもこっちは仮免といったって、仮の免許じゃなくて借りた免許だからね(笑)。

 そうしたら反対側の道路でまた取り締まりをやっていてね。嫌だなあ、また捕まっちゃうよっていったら、お巡りさんに今日はこっちからいきなさい。と抜け道教えてもらいました(笑)。

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