短期集中連載
原辰徳「ONと比較され続けた男の光と影」

最終回 ジャイアンツ愛の「誤算」、悲しき終焉
前半戦の報告を終え、名古屋に向かう原辰徳監督。「菅直人よりはるかにマシ」との渡邉恒雄会長の評価をどう聞く?〔PHOTO〕安部俊太郎(以下同)
東海大相模高時代、監督で父である貢(左)との親子鷹で甲子園に春夏4度出場した

 '01年、原辰徳(53)が監督1年目を迎えるにあたってつけたキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」だった。以後、メディアを通じて何度も口にするのだが、何もマスコミ受けを狙ったものではない。彼は本気で「ジャイアンツ」と「愛」を基本戦略としているのである。

 原にまず、愛を注いだのは実父・貢だ。

 貢は佐賀県の生まれ。ノンプロ(東洋高圧大牟田)で名サードとしてならしていた父は妻・勝代との間に辰徳が生まれた'58 年、現役を引退した。

 翌年、貢は三池工高(福岡県大牟田市)の監督に就任。6年後、甲子園初出場初優勝の快挙を達成すると、その手腕を買われて神奈川・東海大相模高に監督として迎えられた。幼稚園に上がる前から父に鍛えられた息子は、あえて東海大相模で、貢のもとでプレーする道を選んだ。

「実力が五分なら使わない。お前が七で相手が三ぐらい開きがないと補欠だ」

 父の言葉である。人が1発殴られるところを、原は5発、6発と殴られた。落ち度がなくても、鉄拳が飛んでくる。監督と父子であることで同情を買いこそすれ、妬まれたことは一度もなかった。

 原が東海大に進学すると、貢も同大の監督に就任。のべ7年にわたって、原は父の野球を叩き込まれた。