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 その点、迪宮が川村家に託されるのは不思議ではないのだが、いささか複雑な事情があった。

 というのも迪宮の生母、節子妃(後の貞明皇后)の父、九条道孝が健在だったからである。

 健在だったばかりではない。

 九条家は、五摂家のなかで近衛家に次ぐ家格であったし、道孝は戊辰戦争では奥羽鎮撫総督という重職を務めているのだ。

 さらに道孝の姉夙子は、孝明天皇の女御、英照皇太后であった。

 夙子皇太后は、親王をもうける事が出来なかった。それゆえに、道孝にとって、娘が早速、親王をなした事は、大きな喜びであった事は間違いない。

 けれど、皇室の思し召しは、川村伯爵の下で養育される事だったのである。生後七十日で迪宮は、麻布狸穴の川村邸に移った。

 以後約三年にわたり川村は迪宮を養育した。

 川村の死去により、同家での養育は終わった。

 伯爵が死去した以上、とても養育の責任はもてないとして、川村家は、迪宮の引き取りを求めた。その責の重さを考えれば当然の事だろう。

 困ったのは、皇太子の侍従長を務める、木戸孝正であった。孝正は、木戸孝允が嗣子なく死んだ後、木戸家の後継となった人物である。実父は、開国論を支持して挫折、切腹した来原良蔵である。来原は、伊藤博文を見いだした人物として、今日、知られている。

 木戸孝正は、当時、東京大学理学部でただ一人の日本人教授だった菊池大麓に相談し、東京府女子師範学校附属幼稚園によい保母さんが居る、という情報を得た。

迪宮時代足立たかに養育されていた当時の迪宮(後の昭和天皇、写真右)と淳宮(左)、光宮(中)

 まだ幼児教育が、はじまったばかりの時代である。木戸は幼稚園に赴き、その保母と会った。

 足立たか(孝)、という娘だった。

 父、足立元太郎は、内村鑑三と札幌農学校で同期であった。

 かくして、たかは、迪宮、淳宮、光宮(高松宮)を養育し、後に鈴木貫太郎に後添えとして嫁いでいる。

 昭和天皇は、昭和五十五年十二月の記者会見で、「鈴木たかは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります」と語っている。

 とすれば、貫太郎は義理の父親のようなものであり、終戦に際して首相を務めた際の天皇との連携プレーの元には、たかの存在があったと云ってよいだろう。

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