乃木希典 vol.8
昭和天皇の教育係になった乃木の教育方針とは
福田 和也

vol.7 「日露戦役から凱旋。天皇の命で、乃木は学習院院長に」はこちらをご覧ください。

 明治天皇が、乃木を学習院院長に任命した理由の一つは、皇孫迪宮(後の昭和天皇)の教育にかかわっていた。

 明治天皇は、只一人の成人した男子、明宮嘉仁親王(大正天皇)の体調が万全でなく、十分な皇嗣としての教育が叶わなかった事を残念に思われていた。

 幸い迪宮は健康であり、続いて誕生した淳宮(秩父宮)もまた同様に健康だったので、皇孫を学習院で他の生徒とともに教育するという計画は、現実味を帯びていた。

 そして皇孫の教育を司るのに最もふさわしい人間として、明治天皇は乃木を指名したのであった。乃木の忠誠心、その質素さ、有能であるよりも、有徳であろうとする姿勢を愛していたのである。

 未来の君主となる皇孫を、その徳義を涵養し得るのは、乃木のような人物以外いないと明治天皇は考えていた。この発想は、天皇自身の経験から生まれたものだろう。

 十六歳で践祚した天皇は、京都の宮中の奥深くから、東京に赴いた。

 東京でそれまで女官たちに囲まれていた生活空間は一掃され、西郷隆盛の差配の下、島義勇、山岡鉄舟ら、豪傑が集められたのである。

 西郷は、天皇に乗馬、武術を勧めた。相撲で投げ飛ばすこともあった。

 一度、天皇が落馬した際、思わず「痛い」と云った時、西郷は「男は『痛い』などと云うものではありません」と叱りつけたという。

 西郷は、征韓論をめぐっての政争に敗れ、薩南健児を連れて、鹿児島に帰ってしまった。

 西南戦争に際して明治帝は、京都御所から十日ほどお出ましにならない事があった。西郷を討伐するのは、気が進まなかった。

 明治帝は、西郷とともに過ごしたような経験を乃木が孫に与えてくれるのではないか、と期待したのだろう。

「院長閣下がおっしゃるから」

 皇孫の教育は、乃木のみに委ねられたわけではない。まず里親として、川村純義が選ばれた。

 今日では、白洲正子の母方の祖父、と云った方が通りがいいだろうか。

 薩摩藩の出身で、西郷とともに島津斉彬に抜擢された川村は、維新後は海軍に入り、初期海軍の官制のほとんどを定めた、帝国海軍の父とも云うべき存在になった。

 西南戦争に際して、西郷と行動を共にはしなかったが、鹿児島の西郷と連絡をとろうと試み続けている。

 臣下の家で皇嗣を育てることは、長い間、慣例とされてきた。明治天皇は、生母中山慶子の実家、中山忠能の家で育てられ、大正天皇も、中山家で育てられている。

 その点、迪宮が川村家に託されるのは不思議ではないのだが、いささか複雑な事情があった。

 というのも迪宮の生母、節子妃(後の貞明皇后)の父、九条道孝が健在だったからである。

 健在だったばかりではない。

 九条家は、五摂家のなかで近衛家に次ぐ家格であったし、道孝は戊辰戦争では奥羽鎮撫総督という重職を務めているのだ。

 さらに道孝の姉夙子は、孝明天皇の女御、英照皇太后であった。

 夙子皇太后は、親王をもうける事が出来なかった。それゆえに、道孝にとって、娘が早速、親王をなした事は、大きな喜びであった事は間違いない。

 けれど、皇室の思し召しは、川村伯爵の下で養育される事だったのである。生後七十日で迪宮は、麻布狸穴の川村邸に移った。

 以後約三年にわたり川村は迪宮を養育した。

 川村の死去により、同家での養育は終わった。

 伯爵が死去した以上、とても養育の責任はもてないとして、川村家は、迪宮の引き取りを求めた。その責の重さを考えれば当然の事だろう。

 困ったのは、皇太子の侍従長を務める、木戸孝正であった。孝正は、木戸孝允が嗣子なく死んだ後、木戸家の後継となった人物である。実父は、開国論を支持して挫折、切腹した来原良蔵である。来原は、伊藤博文を見いだした人物として、今日、知られている。

 木戸孝正は、当時、東京大学理学部でただ一人の日本人教授だった菊池大麓に相談し、東京府女子師範学校附属幼稚園によい保母さんが居る、という情報を得た。

迪宮時代足立たかに養育されていた当時の迪宮(後の昭和天皇、写真右)と淳宮(左)、光宮(中)

 まだ幼児教育が、はじまったばかりの時代である。木戸は幼稚園に赴き、その保母と会った。

 足立たか(孝)、という娘だった。

 父、足立元太郎は、内村鑑三と札幌農学校で同期であった。

 かくして、たかは、迪宮、淳宮、光宮(高松宮)を養育し、後に鈴木貫太郎に後添えとして嫁いでいる。

 昭和天皇は、昭和五十五年十二月の記者会見で、「鈴木たかは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります」と語っている。

 とすれば、貫太郎は義理の父親のようなものであり、終戦に際して首相を務めた際の天皇との連携プレーの元には、たかの存在があったと云ってよいだろう。

 ∴

 明治四十一年四月、迪宮は、学習院に入学した。
早速、乃木から薫陶を受けた。
東宮御所から歩いて通う。
雨でも傘をささない・・・。

 乃木さんの話では、あの時分のことで相撲をとったりされて御洋服の膝や靴下に穴があくんですが、それをいちいち取り替えていたんです。ところが、ある日、お帰りになって「院長閣下が、着物の穴の開いているのを着ちゃいけないが、つぎの当たったのを着るのはちっとも恥じゃない、とおっしゃるから、穴の開いているのにつぎを当てろ」とおっしゃられて、私どもは穴のあいている御洋服や靴下につぎを当てました。(略)つぎを当てますと、「これでいいんだ。院長閣下がおっしゃったんだから、これでいいんだ」とおっしゃってました。

(鈴木孝「天皇・運命の誕生」)

 たかは、戦後、復興した後も、昭和天皇が女官につぎを当てさせた外套を着ていると聞いて、「ああ、乃木さんが一生懸命御教育遊ばしたことは、今でも陛下の中に生きていらっしゃるんだな」と思ったという。

以降 vol.9 へ。

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