俺たちのガンプラ30年史 [前編]

「どこまでもリアルに」第1号を作った職人の開発秘話
FORZA STYLE

「30年前にガンダムを設計させてもらったおかげで、今も若い設計者が慕ってくれる。自分を運がいい人間だと思っているんです」

 村松正敏(63)は'07年にバンダイを定年退職したが、再雇用され、勤務を続けている。村松の柔和な語り口からは、「俺こそがガンダムを生み出した」などという気負いはまるで感じられない。

「今の設計は、すべて3D-CAD(3次元のコンピューター設計システム)で図面を引いているんですが、私が設計していた頃は、鉛筆とコンパスでしてね」

 村松は手作業で描き上げた設計図を見せてくれた。すでに黄色く変色した図面に直立不動のガンダムが正面と横向きに描かれている。アニメシリーズは何作も回を重ね、それに合わせてガンプラのスタイルは変化した。

 最近では手足がすらりと伸びたシャープな体型である。それを見慣れたからか、村松の図面のガンダムは、レトロなロボット体型で、無骨な雰囲気を湛えているように感じた。

 少々、ガンプラ誕生に至るまでの流れを説明したい。'79(昭和54)年4月、テレビ朝日系列で『機動戦士ガンダム』が初放映されたが、平均視聴率(関東圏)は5.3%と振るわなかった。午後5時半からの30分番組でありながら、ストーリーが複雑で小学生には難解と受け取られたのである。

 放映に合わせて、番組スポンサーだった玩具メーカー・クローバー('83年倒産)がダイカスト製(超合金)のガンダムを発売したが、売り上げは不振を極め、クローバーの意向もあってガンダムは'80(昭和55)年1月に打ち切られた。

 しかし、当時のアニメファンの鑑賞眼は確かだった。「実はガンダムはすごい」という口コミは中高生や大学生の間で急速に広がり、再放送を嘆願する手紙がテレビ局にどっさり送られたのだ。同年2月に再放送がスタートすると、午後4時台にもかかわらず平均視聴率13.1%(関東圏)を叩き出した。

 '71(昭和46)年に設立されたバンダイ模型(現・バンダイ)は、'77(昭和52)年に『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルを発売して社運が好転する。ヤマトのプラモを設計する際、バンダイ模型は「1/700」など、仮想の実寸を基にした縮尺(スケール)で忠実に再現した。そのことが、大人の艦船模型ファンをも唸らせ、成功へとつながったのだ。その数年後、ガンダムというキャラクターをスケールで表現する素地はできあがっていたわけだ。

 村松は、地元の今井科学というプラモデルメーカーからバンダイ模型へと移った転職組だ。転職して8年後の'80年、30代半ばに差し掛かろうとしていた村松は、バンダイ模型でもエース設計者と呼べるキャリアを積んでいた。

 バンダイとしても再放送で高視聴率を叩き出したガンダムをプラモ化するのに積極的に動いていた。そんなバンダイの背中を押した一因は、他でもない熱心なガンダムファンの存在だった。

〈 テレビアニメの商品化について 〉と題された12ページにわたるガリ版刷りの冊子を、村松は今も大切に保存している。中部地方の高校生が作成した冊子には、プラモを含む玩具、陶器、文具、駄菓子屋商品、衣類などガンダムを多岐にわたってキャラクター商品として展開することを勧め、そのためには著作権のある創通エージェンシー(現・創通)に申し込むべしと、その連絡先まで記載していた。

「これは上層部から私に、熱心なファンの声の実例として渡されたんですが、プラモ化のGOサインが出た背景に、こうした熱意があったのは確かです」(村松)

 かくしてバンダイ入社後、村松の83作目となるプラモは、「ガンダム」と決まった。村松が回想する。

「まったくガンダムのことを知りませんでしたからね。ビデオが普及していない時代で、上司が当時としてはかなり高額のビデオデッキを買ってくれて、テレビ局からいただいた番組のビデオを何度も観ました。今までのロボットのアニメは、善が悪をくじくという単純なストーリーでしたが、戦う両者の立場がリアルに描かれていることに感心しました」